私たちの体内に潜む「100兆個の隣人」が、医療の常識を塗り替えようとしています。ヒトの腸内に生息する膨大な数の細菌、いわゆる「腸内細菌」を病気の治療に役立てる研究が、今まさに加速しているのです。かつては単なる排泄物の一部と見なされていたふん便ですが、最新の解析技術によって、そこには莫大な価値が眠っていることが判明しました。研究者たちは親しみを込めて、これらを「茶色いダイヤ」と呼んでいます。
2019年07月11日現在、この分野には中堅から大手まで多くの製薬会社が熱い視線を送っています。中でも京都府向日市に本拠を置く日東薬品工業は、動脈硬化の治療薬開発に乗り出し、大きな注目を集めています。同社は2019年05月に国内初とも言われる腸内細菌創薬の重点研究施設を新設しました。駅からほど近いこの施設には、最先端の培養装置が並び、未来の特効薬を生み出すための研究が日夜進められているのです。
SNS上では「自分の腸内フローラが薬になるなんて驚き」「まさに錬金術ならぬ錬菌術だ」といった驚きと期待の声が広がっています。そもそも腸内細菌とは、私たちの腸の中に住む多種多様な細菌の集まりで、その様子がお花畑のように見えることから「腸内フローラ」とも呼ばれます。これまでは健康維持のイメージが強かった乳酸菌やビフィズス菌ですが、最新の研究では特定の病気と密接に関わっていることが分かってきました。
動脈硬化からがん、認知症まで!広がる「腸内創薬」の可能性
日東薬品工業は神戸大学と共同で、動脈硬化を抑える働きを持つ特定の細菌を発見しました。動脈硬化とは、血管の壁が厚く硬くなり、血液の流れが滞ってしまう状態を指し、心筋梗塞などの原因となる恐ろしい症状です。同社はこの菌を活用した薬を開発し、2027年ごろの臨床試験(治験)開始を目指しています。治験とは、新しい薬を実際の患者さんに投与して、安全性や効果を確認する最終段階の重要なステップを意味します。
腸内細菌が関わっているのは血管の病気だけではありません。2019年06月には大阪大学などが、大腸がん患者に特有の細菌を発見したと発表しました。なんと約80%という高い精度でがんを判別できる可能性があり、早期発見の切り札として期待されています。さらに、2019年01月には国立長寿医療研究センターが認知症との関連を指摘するなど、腸内細菌のバランスが私たちの脳や内臓の健康を左右している実態が明らかになりつつあります。
こうした状況を受け、2017年に発足した「日本マイクロバイオームコンソーシアム」には、武田薬品工業や塩野義製薬といった国内大手35社が名を連ねています。「マイクロバイオーム」とは、体内に住む微生物の生態系全体を指す言葉です。日本人は欧米人に比べて肥満が少なく、独自の食事習慣を持っているため、その腸内データは世界的に見ても「宝の山」なのです。この優位性を活かせば、日本が世界をリードする新産業になるでしょう。
1兆円市場への期待と、安全な未来への課題
ビジネスの視点からも、腸内細菌は非常に魅力的な分野です。2018年には60億円程度だった世界の市場規模は、2024年には8450億円にまで膨れ上がると予測されています。2020年代半ばには1兆円の大台に乗るのも夢ではありません。人工知能(AI)を活用して、腸内環境の変化から将来の病気のリスクを予測するサービスの開発も進んでおり、病気になる前に「芽を摘む」予防医療の時代がすぐそこまで来ています。
私は、この「腸内細菌創薬」こそが日本のモノづくり精神を発揮できる分野だと確信しています。日東薬品工業のような長年培った培養技術を持つ企業が、大学の最新科学と結びつくことで、海外勢にも対抗できるはずです。ただし、米国での治験で不手際による事故が報告された例もあり、安全性への配慮は欠かせません。有用な菌だけを選び出し、正しく製剤化する日本の丁寧な技術こそが、患者さんの信頼を勝ち取る鍵となるでしょう。
政府もこの分野を「スマートバイオ産業」として後押しし始めています。海外企業との提携も活発化する中、産官学が一体となって安全基準を整え、一日も早く革新的な治療を届けてほしいものです。私たちの体の中に眠る「茶色いダイヤ」が磨かれ、世界中の人々を救う輝きを放つ日は、もう遠い未来の話ではありません。健康の鍵を握るお腹の中のミクロな世界から、目が離せない日々が続いていくことでしょう。