2019年、日本の産業界で初任給の引き上げが急速に広がり、若年層やデジタル技術に長けた人材を獲得しようとする企業間で、処遇改善を競い合う動きが活発になっています。企業が継続的に成長し収益を増やさない限り、この給与増の波は、結果として人件費全体に占める割合の大きい中高年層の給与に影響を及ぼすことになりかねません。特に業績の伸び悩みが顕著な大手電機メーカーや、構造的な変革期を迎えている製薬業界などでは、中高年層にとって厳しい状況が一段と深まっていると言えるでしょう。長らく日本の経済を支えてきた年功序列(年齢や勤続年数に応じて賃金が上がる仕組み)という賃金制度は、今、深刻化する人手不足によって大きく揺らぎ始めているのです。
この若手獲得競争の最前線として、まず注目したいのがゼネコン業界です。大成建設が2018年4月に大卒初任給を1万円引き上げて24万円としたのを皮切りに、高専卒(総合職)も1万5千円増の22万円となりました。そして2019年4月には鹿島をはじめとする他の大手ゼネコンも大卒初任給を24万円に引き上げ、人手不足が慢性化している建設業界で若年層の取り込みを本格化させています。厚生労働省の統計データによれば、2018年の初任給は、大学院修士課程修了者が23万8千7百円、大卒が20万6千7百円、高卒が16万5千1百円と、すべての学歴で過去最高水準を記録しており、若年層への投資が積極的に行われている実態が浮き彫りになりました。また、世界的な事業展開を進めるファーストリテイリングは、2020年春の大卒初任給を現行から約2割増となる25万5千円にする予定で、この流れは今後も加速していくと予想されます。
初任給の引き上げやベースアップ(ベア)(基本給を底上げすること)は、企業にとって固定費の増大に直結する重要な経営判断です。企業は今、建設現場の担い手不足といった量的な人手不足だけでなく、デジタル技術や**AI(人工知能)**といった高度な知識を持つ専門人材の質的な不足という二重の課題に直面しています。そのため、背に腹は代えられない状況として、若年層への手厚い処遇を決断せざるを得なくなっているのです。しかし、全体の給与のパイが増えない限り、そのしわ寄せは、依然として人件費の大部分を占める中高年層に及ぶ構図が、今後さらに強まっていくことでしょう。
激化する人材争奪戦の裏側:電機・製薬業界の事例
建設業界で増益基調にあった大成建設は、2020年の東京五輪・パラリンピックの建設需要などに支えられ、57歳での役職定年で給与が約1割減る制度を廃止するなど、中高年層にも配慮を示しています。社内からは「若手に配分するのは時代の流れであり、納得できる」という45歳男性社員の理解ある声も聞かれます。一方で、収益の伸び悩みが続く大手電機メーカーでは、初任給は上昇しているものの、社員全体の平均年収は下降傾向にあります。50代の男性社員からは「働き方改革で残業代も減り、10年前の50代と比べて給与が少ないのは正直悔しい」という、厳しい現実を吐露する声が上がっています。
製薬業界大手のエーザイは、2019年春のベアにおいて、20代から30代の若手社員を中高年層よりも手厚く優遇する施策を実施しました。その結果、45歳以上を中心とした約300人が2019年3月末で早期退職を選択したため、「人件費の総額は変わらない」と会社側は説明しています。同時に、同社は新卒採用枠を例年の40人程度から100人規模へと大幅に増やし、組織全体の若返りを進めています。製薬業界では、医師がインターネットを通じて医薬品の情報を集めやすくなったことなどを受け、国内の医薬情報担当者(MR)がこの5年間で3千人減少しました。その一方で、データ分析など高度な専門性を持つ人材の必要性が高まっており、各社は若手の採用と教育に注力しています。ある製薬会社のトップは、「データ解析ができる即戦力となる人材は、高水準の給与を提示しても、なかなか採用に至らないのが現状だ」と、専門職の人材確保の難しさを打ち明けています。
中高年の賃金抑制を示す冷たい統計データと識者の見解
若手確保のために初任給引き上げを公表する企業が目立つ中、中高年層の賃金抑制は表面化しにくい傾向にあります。しかし、その冷たい兆しは統計データにはっきりと表れています。厚生労働省の賃金統計表を基にした分析によりますと、従業員1千人以上の企業で働く40~44歳の男性の平均年収は、2008年の797万円から2018年には726万円へと大幅に減少しているのです。また、45~49歳の層も、この10年間で平均年収が約50万円ほど下がっています。これに対し、2018年の25~29歳は2008年より17万円、20~24歳も15万円の増加が見られ、若年層と中高年層との間で賃金格差が逆転する現象が起きていることが分かります。
かつては年齢や勤続年数に応じて賃金が右肩上がりに高くなるのが一般的でした。しかし、昭和女子大学の八代尚宏特命教授は、「人手不足や、外資系企業との人材争奪戦の激化により、若手の給与水準が高くなり、賃金カーブ(年齢と賃金水準の関係を図示した曲線)が緩やかになってきています。これは中高年層にとって厳しい冬の時代が到来したことを示唆しています」と指摘しています。また、中国経済の減速などで企業収益の拡大傾向にも陰りが見え始めており、人件費に振り分けられるパイの増加も難しくなっています。今こそ、成果や能力に応じて報いる仕組みへと、年功型の賃金制度から本格的に移行する時期に来ていると言えるでしょう。私見ですが、この流れは避けられず、企業には成長戦略によるパイの拡大と、中高年層にはこれまでの経験を活かした新たな能力開発が急務であると考えます。
コメント