今、世の中では「ミュージカルブーム」という言葉をよく耳にしますが、人気公演のチケットは発売と同時に完売してしまうのが現状です。しかし、その客席を埋めているのは、ほとんどが作品や出演者の熱心なファンの方々ではないでしょうか。普段あまり演劇を見ない方が「ちょっと興味があるから見に行ってみようかな」と思っても、チケットの入手が難しく、そもそも劇場に足を運ぶという行為自体が、非日常的でハードルが高いと感じられてしまうものです。特定の熱狂的なファン層に依存するだけでは、演劇文化の裾野は広がりにくいと言えるでしょう。
舞台関係者の誰もが抱える課題は、「いかに新しい観客層を呼び込むか」という点に尽きます。例えば歌舞伎には、当日ふらりと立ち寄れる「幕見席」という伝統的な仕組みがありますが、これは日本の伝統芸能ならではの余裕と知恵の産物です。しかし、一般の商業演劇においては、同様の柔軟な施策を打ち出せているケースは、まだ多くはないというのが実情です。この停滞した状況に風穴を開けるべく、俳優の成河(そん・は)さんが、ご出演された舞台「BLUE/ORANGE」で「カルチベートチケット」という画期的な実験に挑まれました。
「カルチベートチケット」とは、劇団や興行主が観客から寄付を募り、その資金を使って、普段演劇を見ない方でも気軽に購入できる安価なチケットを用意する仕組みのことです。このネーミングは、カフェの利用客が経済的な理由でコーヒーを飲めない「誰か」のために一杯分の代金を先に支払っておくという、「カルチベートコーヒー」という慣習に由来しています。今回の試みでは、成河さんご自身のメールマガジンを通じて、一口一〇〇〇円の寄付を呼びかけられました。その結果、定価七八〇〇円のチケットを二〇〇〇円という破格の価格で提供することが可能になりました。
公演初日の約一カ月半前から寄付を募り始めたところ、なんと五八一人もの方々から総額一四三万三〇〇〇円という、当初の予想を遥かに超える金額が集まりました。この心温まる支援のおかげで、最終的に二四三枚もの「カルチベートチケット」が活用されたのです。この枚数を、全三六公演で割ってみますと、一回の公演につき平均六・七五人の方が、この格安チケットを使って観劇された計算になります。演劇を見慣れていない二四三人の人々が、この斬新な舞台を体験されたことは、演劇界にとって非常に大きな一歩と言えるでしょう。
俳優を成長させる「異分子」の存在
成河さんが主演された「BLUE/ORANGE」は、二〇一〇年の初演時に大きな話題を呼んだ作品の再演で、境界性人格障害(BPD、専門的な解説としては感情や対人関係の不安定さ、衝動的な行動などが特徴とされる精神疾患です)と診断された若者と、その治療方針を巡って対立する二人の医師、わずか出演者三名だけで展開する緊迫感あふれる会話劇です。客席数一八〇の劇場で、毎回六~七人の「演劇を見慣れない」観客が座っているという状況は、演じる俳優側にとっても非常に刺激的な経験だったようです。
意外かもしれませんが、俳優というものは、熱心なファンに守られた環境だけで芝居をしていると、かえって成長が止まってしまう危機感がある、と成河さんは言います。「演劇は一生懸命見られると、かえって予定調和に陥り、うまくいかないことが多い」のだそうです。つまり、俳優の成長、さらには作品自体の質の向上のためにも、純粋なファン層とは異なる視点を持つ「異分子」の存在が必要不可欠である、という強い危機意識がこの試みの根底にはあったのです。演劇の可能性を広げるためには、多様な観客の目に触れることが重要だと、私は考えます。
そして、全公演終了後には、寄付者の方々とのトークイベント「カルチベート!ディベート!」が六回にわたって開催されました。毎回三時間近くにも及ぶ熱心な意見交換が行われ、様々な建設的な声が寄せられたそうです。この対話を通じて、俳優個人でできる活動には限界があるということも見えてきましたが、それ以上に大きな収穫があったようです。それは、「お客さんの側にも、演劇の現状に対する同じような問題意識があり、何かしらの力になりたいと願っている人が多くいる」という確かな手応えでした。
SNSでの反響と「閉じられたコミュニティー」の脆弱性
この「カルチベートチケット」の試みは、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)でも大きな反響を呼びました。多くの方が、演劇に新しい風を吹き込む試みとして期待や賛同の声を寄せており、「これこそ演劇界が今すべきこと」「素敵な取り組み、ぜひ他の作品でも導入してほしい」といった好意的な意見が多数見受けられました。一方で、「ファン以外の客が増えて、いつもの席が取れなくなるのでは」といった懸念の声も一部にはありましたが、全体としては、演劇の未来を考えるポジティブな議論が巻き起こったと言えるでしょう。
近年、SNSの普及により、同じ趣味嗜好を持つ人々同士が繋がりやすくなり、「顧客の囲い込み」が販売戦略の主流となりつつあります。しかし、こうした「閉じられた」コミュニティーだけに依存する興行は、長い目で見ると意外ともろく、文化としての持続性に欠ける可能性があります。幸い、舞台芸術の世界には、演者と観客の間に双方向的な関係性があり、一過性の消費者としてだけでなく、演劇の未来に積極的に貢献したいと願う観客が少なからず存在します。こうした観客の力を借りて新たな層を開拓していく手法こそ、演劇ならではの独創的な戦略となるに違いありません。
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