2019年6月初頭、米ニューヨークで開催された会議で、米国の金利動向について投資家を対象とした興味深い意識調査が実施されました。その結果は、当時のウォール街のムードを劇的に物語るものでした。参加者のなんと9割以上が、米連邦準備理事会(FRB)が次に実施するのは利上げではなく利下げであると見込んでいたのです。さらに、利下げ予想者のうち約4分の3は、今後1年間で2回から3回の利下げを予想するという、非常にアグレッシブな見通しを示していました。
この結果は、ほんの数カ月前までの状況からは考えられないほどの急激な変化を示しています。たとえば、1カ月前には先物市場が年内の利下げ確率を3分の1程度と示唆していたにすぎず、半年前には、多くの投資家が追加利上げの可能性すら視野に入れていたのです。これまで一貫して続いてきた金利の引き締めサイクルが、目まぐるしいスピードで逆回転を始めたと、多くの市場関係者は感じているのでしょう。明確な景気後退や金融市場の暴落といったイベントがないにもかかわらず、これほど短期間で米国債市場の投資家心理が急変した事例は、近年では類を見ないでしょう。
もちろん、経済のファンダメンタルズ(基礎的条件)の悪化が、この投資家心理の変化に一役買っているのは間違いありません。特に、貿易戦争の激化が影響し、米国の工業生産や企業の設備投資はここ数カ月で著しく低迷しています。実際、2019年5月の製造業PMI(購買担当者景気指数。企業の購買担当者へのアンケートに基づき、製造業の景況感を示す指標です)は50.5という、およそ10年ぶりの低水準を記録しており、景気の先行きに対する懸念が広がっていることが伺えます。
しかしながら、これらの経済指標だけでは、利下げ観測が急速に高まった背景をすべて説明することはできません。なぜなら、その一方で、2019年5月には米国人消費者が経済に対して、2000年以降のほぼどの時点よりも強い信頼感を持っていることが判明しています。加えて、失業率が50年ぶりの低水準を記録し、家計支出も比較的堅調に推移している状況は、本来であれば景気過熱を抑えるための利上げが想定されやすい環境です。こうしたちぐはぐな状況を理解するためには、単なるハードな経済統計を超えた、「ソフト」な心理的要因にも注目する必要があります。
💡投資家心理を揺るがす二大要因:地政学リスクとFRBの不確実性
投資家心理の急激な転換を引き起こしている要因の一つが地政学リスク、特に**「世界中で勃発している・しようとしているあらゆる戦争」に伴う不確実性です。ここでの「戦争」とは、軍事的な衝突だけでなく、貿易摩擦をも含めた、国境を越えた対立全般を指します。投資家は、米中間の貿易戦争をはじめとする国際情勢の緊張が、自社のビジネスや世界経済にどのような影響を及ぼすかを予測することに苦慮しています。特に、リスクに値段をつけられない状況は、彼らをますます慎重にさせています。
また、欧米諸国の一部で現実味を帯びてきた政治的シナリオの影響を測る難しさも、不確実性を高める大きな要因です。たとえば、英国で企業の国営化を主張するコービン労働党党首が首相になった場合や、米国で強力な規制を支持するウォーレン上院議員が民主党の大統領選指名候補になった場合など、従来の市場原理に反する可能性のある政策が実行されるリスクです。金融界の重鎮の一人が「2020年大統領選でトランプ氏が再選されるというシナリオが市場に織り込み済みのように見えてきた」と述べたように、異例の政治状況への対応が課題となっています。
米債券運用大手ピムコが最近の長期見通しで指摘したように、「政治的な左右両派のポピュリスト**(大衆迎合主義。既存のエスタブリッシュメント=支配層に対抗し、一般大衆の支持を得ようとする政治姿勢を指します)が勢力を広げる試みは、経済・金融市場にマイナスとプラスの両方の結果をもたらす可能性がある」という認識は、「何が起きるか誰にも分からない」という現状を如実に示しています。このような不確実性の高まりに対して、投資家は伝統的に債券を買うことでリスクヘッジ(危険の回避や軽減)を図る傾向があり、これが利下げ観測を強める一因となっているのでしょう。
二つ目の心理的要因は、FRBそのものに関する不確実性です。2019年は、パウエル議長がトランプ大統領の利下げ要求に屈するのかどうかについて、激しい臆測が飛び交いました。もちろん、政治的な圧力は重要な要素ではありますが、さらに興味深いのは、FRBが内部で金融政策決定のプロセスについて、大規模な見直しに着手している事実です。この見直し作業は一部テクニカルで難解な部分もありますが、米資産運用大手ブラックロックは、FRBが2020年初頭にも金融政策へのアプローチについて重大な変更を発表する可能性があると見ています。
この見直し作業が始まったこと自体が示唆しているのは、構造的な経済変化、特に人口動態やデジタルイノベーションといった要因により、米国のインフレ率が長期にわたり低位で推移するという確信がFRB内で強まっていることです。もしそうであれば、経済を刺激も抑制もしない**「中立」レベルの金利は、長年にわたり相当低い水準で推移する可能性が高いでしょう。あるベテランFRB高官が「従来、標準的だと考えられてきたような金利水準は、我々が現役のうちには二度とみられないかもしれない」と述べているように、市場の利下げ観測は、FRB内部の長期的な金利観**の変化とも同期していると言えるでしょう。
🔮「パウエル・プット」時代の到来か?市場の期待と歴史の教訓
こうしたFRBの姿勢の変化は、投資家に対して「FRBは景気低迷を避けるため、下支えのためには必要なことを何でもする」という強力なメッセージを送っていると解釈されています。市場はこの推定のもとで形成されつつある、「パウエル・プット」の時代に突入しつつあると見ているのではないでしょうか。「プット」とは、本来は株価などの損失を限定する売る権利(オプション取引)を指しますが、ここでは、市場が動揺した際にFRBが金融緩和策を講じることで、株価の下落を防ぎ、市場を下支えする機能を指しています。
私自身の意見としては、この「パウエル・プット」への市場の期待は、非常に危険な賭けでもあると考えます。確かに、現時点での投資家からのメッセージは明確であり、市場はFRBの予防的利下げを強く望んでいるでしょう。しかし、過去の教訓を忘れてはなりません。歴史家は、今回のFRB内部の長期低インフレ観を、かつて経済学者が**「今回は違う」と宣言したものの、ひどい結末を迎えた局面として将来的に引き合いに出すかもしれません。ピムコの指摘の通り、インフレが永遠に来ないと決めてかかるのは時期尚早であり、金融政策には常に予期せぬ副作用が伴うものです。
特に、「パウエル・プット」が、1990年代の悪名高い「グリーンスパン・プット」の二の舞いにならないことを心から祈るばかりです。当時のグリーンスパン議長(FRB議長)の政策は、市場の不安を鎮める一方で、低金利の継続により住宅バブルを助長し、2008年の世界金融危機が発生する温床を作り出してしまったと言われています。FRBが目先の景気後退を避けるために市場を下支えする行動は、短期的には歓迎されるかもしれませんが、長期的な金融の健全性という視点からは、慎重な監視が必要だと考えます。読者の皆様も、この国際情勢と金融政策の二重の不確実性**が織りなす市場の動向から、決して目を離さないでください。
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