「エビデンス」が霞が関を変える!EBPMで日本の政策はどう進化する?統計不正を乗り越える新思考に迫る

2019年08月16日現在、霞が関では「EBPM」という耳慣れない言葉が急速に浸透しています。これは「エビデンス・ベースド・ポリシー・メイキング」の頭文字を取ったもので、日本語では「証拠に基づく政策立案」という意味になります。私たちの貴重な税金が投入される政策が、確かなデータに基づき立案されるのは当然のように思えるでしょう。しかし、実態を振り返れば、これまでは政治家や官僚による「調整」や「勘」が優先される場面も少なくありませんでした。

SNS上ではこの新しい波に対し、「ようやく当たり前のことが始まるのか」「データの改ざんが起きない仕組みもセットで必要だ」といった、期待と不安が入り混じった声が上がっています。特に厚生労働省で発覚した統計不正問題が記憶に新しい中、国民の目はかつてないほど厳しくなっていると言えるでしょう。こうした状況下で、政府が自らの思考回路を根本から作り直そうとする取り組みは、まさに「官僚のOS」をアップデートする挑戦だと私は感じています。

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「効率」から「効果」へ。過去の改革とは何が違うのか

EBPMの核心は、何といっても「証拠(エビデンス)」を政策のど真ん中に据える点にあります。これまでの日本でも、似たような考え方は存在していました。例えば、2001年に発足した小泉政権下での道路公団民営化では「B/C(ビーバイシー)」という指標が多用されました。これは「ベネフィット(便益)」を「コスト(費用)」で割った数値であり、投資に対する見返りを数値化して、無駄な高速道路の建設を絞り込むための武器として使われたのです。

また、2009年に誕生した民主党政権の「事業仕分け」を覚えている方も多いでしょう。あの時も「なぜその予算が必要なのか」という理由や証拠が厳しく問われました。しかし、これまでの改革はどちらかといえば、非効率なものを削るための「引き算」の論理だったと言わざるを得ません。今回のEBPMが目指すのは、単なるコストカットではなく、「その政策によって実際にどのような変化が起きたのか」という「効果」を重視するポジティブな姿勢なのです。

[Image comparing traditional intuition-based policy making and Evidence-Based Policy Making (EBPM)]

この考え方の先駆者は、1990年代のイギリス・ブレア政権に遡ります。彼らは医療現場での「証拠に基づく医療」を政治の世界に応用し、政策と結果の因果関係を科学的に分析し始めました。2013年には「WWC(ワット・ワークス・センター)」という、教育や医療、犯罪防止など様々な分野で「何が機能するのか」を客観的に評価する機関を設立しています。アメリカでもオバマ政権時代に、エビデンスの質に応じて補助金を配分する仕組みが導入されました。

忖度や隠蔽を防ぐ「官僚改革」としての側面

2019年08月02日に開催された統計改革推進会議で、菅義偉官房長官は「EBPMの定着と人材育成は急務である」と語気を強めました。政府がここまでEBPMを強調する背景には、近年取り沙汰されている「森友学園」や「加計学園」を巡る問題、そして統計不正といった不祥事への危機感があります。官僚が政治家の顔色をうかがう「忖度(そんたく)」や、都合の悪い事実の「隠蔽」が疑われる中で、客観的なデータこそが最大の防御策になると考えているのでしょう。

エビデンスが政策立案の必須条件となれば、誰かの主観や声の大きさだけで物事が決まることは難しくなります。三菱UFJリサーチ&コンサルティングの小林庸平主任研究員が指摘するように、良質なデータが蓄積されれば、より確かな意思決定が可能になるはずです。データが積み重なることで政策の質が向上し、それが国民の利益に直結するという好循環が期待されます。これは単なる技術的な手法の導入ではなく、日本の民主主義を健全化する一歩になると私は確信しています。

若手官僚の情熱が切り拓く、霞が関の未来

もちろん、現場には課題も山積しています。PHP総研の亀井善太郎主席研究員によれば、かつての効率性重視の時代に、膨大なデータ作成に追われた「評価疲れ」を感じている省庁も少なくないようです。しかし、EBPMの本質は、予算を守るための「守りのデータ」ではなく、国民にとって最善の策を導き出すための「攻めのエビデンス」です。こうした新しい価値観こそが、今の日本に最も必要とされているものではないでしょうか。

現場の官僚の中からは「若い世代が政策立案で切磋琢磨できる環境を作りたい」という前向きな声も聞こえてきます。2019年08月16日現在、安倍晋三首相が国会でEBPMに言及した回数はまだ4回に留まっていますが、政権幹部がその重要性を認め始めた意義は極めて大きいでしょう。論理とデータで語り合う文化が霞が関に定着した時、日本の政治は「調整」の泥沼から抜け出し、真に未来を見据えたものへと進化を遂げるに違いありません。

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