🔥京の風俗「大原女」を巡る美人画の系譜!葛飾北斎から近代日本画まで時代を超えた魅力に迫る

日本美術の歴史において、京都の風俗を象徴する存在として描かれ続けてきた「大原女(おはらめ)」をご存知でしょうか。大原女とは、京都市の郊外に位置する大原の里から、薪や柴といった燃料を頭に乗せて京の都まで売り歩いた女性たちのことを指します。特に江戸時代に入ってからは、その働く姿や特徴的な装いが美人画の題材として盛んに取り上げられるようになり、多くの絵師の創作意欲を刺激してきたのです。

大原女を描いた作品の中でも、特に注目すべきなのが、江戸中・後期を代表する浮世絵師、葛飾北斎(1760年~1849年)の肉筆画「大原女図」です。この作品は文化年間(1804年~1818年)の末から文政年間(1818年~1830年)の初め頃に制作されたとされています。この絵に描かれる大原女は藍色の着物を着ていますが、赤い襷(たすき)をかけていないことから、これは商売着ではない「古装束(こしょうぞく)」であると解釈できるでしょう。袖の裏地などに使われている鮮やかな赤色が、彼女の姿にあでやかな印象を加えており、当時の京において大原女が人気の風俗の一つとしてすっかり定着していたことがうかがえるのです。

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奇抜な絵師・長沢蘆雪も魅了された大原女の姿

また、江戸中期の個性派絵師、長沢蘆雪(ながさわろせつ)(1754年~1799年)も「大原女」という名の作品を残しています。彼は円山応挙の弟子でありながら、師の写実的な画風とは対照的な奇抜で奔放な作品を多く描いたことで知られています。蘆雪の描いた「大原女」もまた、特定の女性に大原女の衣装を仮装させて描いた可能性が高い美人画に分類されると見られています。静岡県立美術館の上席学芸員である石上充代さんは、この絵について「眉、まつげ、ほつれ髪などを非常に細密に描写しており、働く女性をありのままに描いたものとしてはなまめかしい(色っぽい)」と指摘されています。

さらに、作品には「応需(おうじゅ)」という款記(かんき)があることから、これは誰かからの注文に応じて描かれたものではないか、というのが石上さんの見立てです。つまり、当時の人々にとって、大原女の姿は単なる労働者としてではなく、その独特の装いがファッションや美のモチーフとして愛されていたことの証拠と言えるでしょう。実際に、SNS上でも「北斎や蘆雪といった誰もが知る大絵師が美人画として描いているところに、当時の大原女への憧れや関心の高さが感じられますね」「野趣あふれる働く女性の姿と、細密に描かれた色気の対比が魅力的なんだろう」といった意見が見られます。

近代芸術にも受け継がれた「大原女」という画題

時代が進み近代に入っても、大原女は画題としての広がりを見せ続けました。土田麦僊(つちだばくせん)をはじめ、横山大観、富田渓仙、森田曠平、堂本印象、小松均といった数多くの日本画家が彼女たちを題材としました。さらに、洋画家である浅井忠(あさいちゅう)もまた大原女の姿を描いていることから、その魅力が日本画という枠を超えて、西洋画の手法を取り入れた画家たちにも影響を与えていたことが分かります。私の見解ですが、大原女が持つ庶民的な強さと、京の都の雅(みやび)とは一線を画した素朴な美しさが、時代や画風を問わず、多くの芸術家を惹きつけてきた最大の理由であると考えられます。

しかし、彼女たちの生業であった薪や柴の運搬と販売は、京都市街に電気や都市ガスといった新たな燃料が普及するにつれて、残念ながら商売として成り立たなくなってしまいました。現在、大原女の姿を見ることができるのは、春に開催される「大原女まつり」での衣装の貸し出しや、時代祭の「大原女行列」への協力といった観光資源としての役割が主となっています。

それでも、北斎や蘆雪、そして近代の巨匠たちによって描かれた絵画の中にいる大原女たちは、これからも京の洛外(らくがい)で暮らす女性たちを象徴する存在として、永遠に生き続けていくに違いありません。彼女たちの姿を通して、私たちは歴史とともに移り変わる京の風俗と、その中に宿る普遍的な美を感じ取ることができるでしょう。

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