2019年08月30日、国際パラリンピック委員会(IPC)の教育委員を務めるマセソン美季さんが、日本の教育現場や社会へ向けた情熱的なメッセージを発信しました。長野冬季パラリンピックでの輝かしい活躍を経て、彼女は活動の拠点を海外へと移します。アメリカのイリノイ州立大学への留学や、カナダでの教員生活という異色の経歴を持つ彼女の視点は、私たちが当たり前だと思い込んでいる「障害」の概念を根底から覆すものです。
米国での生活において、彼女が最も衝撃を受けたのは日常の風景でした。日本では障害者専用の施設を利用することが一般的ですが、現地では誰もが同じジムを当たり前のように共有していたのです。これは「アクセシビリティ(障害の有無に関わらず、サービスや設備を支障なく利用できること)」が、単なる優しさではなく、社会のインフラとして深く根付いている証拠でしょう。どこに行けるかという制限ではなく、どこに行きたいかという意志が尊重される文化がそこにはありました。
SNS上では、この「どこに行きたいかが尊重される」という言葉に対し、「日本の過保護なまでの特別扱いに違和感があった」「物理的なバリアよりも心のバリアフリーが大切だ」といった共感の声が相次いでいます。私たちは良かれと思って障害を持つ方を「特別」に扱いがちですが、それがかえって疎外感を生んでいるのかもしれません。マセソンさんが感じた「居心地の悪さ」の正体は、こうした過剰な区別にあるのではないでしょうか。
そもそも「障害は社会が作る」という考え方は、現代の福祉における重要なスタンダードとなりつつあります。これは、身体的な特性そのものが問題なのではなく、段差があったり制度が整っていなかったりする「社会の側」にこそ、生活を阻む障害が存在するという概念です。例えば、車椅子の方が階段で進めない時、原因は足が不自由なことではなく、スロープを用意していない建物側にあると捉える。この視点の転換こそが、今まさに求められているのです。
2020年に開催を控える東京パラリンピックは、単なるスポーツの祭典に留まるべきではありません。マセソンさんは、この大会を日本が「共生社会」へと舵を切るための大きなきっかけにしたいと考えています。多様な人々が混ざり合い、お互いの違いを認め合うことで、誰もが息苦しさを感じない環境が生まれるはずです。それは、特定の誰かのためだけではなく、私たち全員が暮らしやすい未来へと繋がっていくに違いありません。
編集者の視点として、彼女の言葉は非常に重く響きます。私たちは「支援」という言葉で壁を作り、無意識に相手を自分たちとは別の枠組みに押し込めていないでしょうか。誰かが我慢を強いられる社会は、いつか自分自身も生きづらくなる脆さを孕んでいます。マセソンさんが提案する「意志が尊重される社会」の実現には、私たち一人一人が、目の前のバリアを社会の課題として自分事化する想像力を持つことが不可欠だと強く感じます。
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