英国の歴史家A・J・P・テイラーはかつて、「1914年8月まで、分別があって法を守る英国人であれば、普通の暮らしの中で国家の存在を意識するのはせいぜい郵便局と警官くらいだった」と著書に記しました。しかし、それから1世紀を経て、私たちの暮らしにおける国家の関与は劇的に深まっています。スマートフォンや監視カメラが溢れる現代社会において、法に触れる行為をしていないにも関わらず、警察の監視の目を避けようとしただけで問答の対象になる事態は、市民的な自由がどれほど急速かつ深く侵害されているかを示す、極めて警戒すべきケースと言えるでしょう。
この変化を象徴する出来事が、2019年5月に英国で発生しました。街中で顔認証カメラから顔を隠そうとした男性が、警察官とトラブルになり、罰金を科された上で、強制的に顔写真を撮られたというのです。もはや、テロ対策や重大犯罪防止のために導入された監視技術は、私たちの日常へと容赦なく適用範囲を広げ、私たちが「どこの誰であるか」を知られずに過ごすことが、ほぼ不可能になりそうな時代がすぐそこまで来ています。専門家であるイノベーション・コメンテーターのジョン・ソーンヒル氏も、このような状況に深い懸念を示しています。
顔認証規制の国際的な動きと市民の声
このような未来は、既に中国では現実となっており、市民は顔認証技術のあらゆる場所での利用に抵抗することすら許されません。しかし、私たち民主主義国家の市民は、まだこの技術の運用方法について法的な枠組みを定める権利を保持しています。この監視システムを社会でどう運用するかについて、公的な議論と規制の必要性が高まる中、一部の活動家や政治家が具体的な戦いを始めていることは、大いに称賛に値するでしょう。
例えば、世界的な技術の中心地である米サンフランシスコ市は、2019年5月14日、米国で初めて行政機関による顔認証技術の利用を禁止する条例を可決しました(ただし、連邦政府機関が運営する港湾と空港のセキュリティーは対象外です)。この条例案を起草した市議は、「今回の措置は、『監視国家にならなくても、安全の確保は可能だ』というメッセージを示すものです。警察国家にならなくても、しっかりとした取り締まりは十分に実現できます」と語り、市民の信頼関係の構築が重要であることを強調しています。これは、市民の自由を守りながら治安を維持する新たな規範となる可能性を秘めた、画期的な判断と言えるでしょう。
一方、英国では、事務職のエド・ブリッジズさんが、2017年のクリスマスシーズンにカーディフの中心街で警察に姿を撮影されたことが、プライバシーに対する根本的な侵害であるとして、2019年5月下旬にサウス・ウェールズ警察を相手に訴訟を起こしました。現在、判決待ちの状況ですが、この訴訟は、市民の同意なしに顔認証データを収集・利用することの是非を問う重要な試金石となるでしょう。市民的権利の擁護団体「リバティ」は、この自動顔認証技術(AFR:Automated Facial Recognition)の使用は、同意なく指紋やDNAサンプルを採取する行為に等しいと強く非難しています。
機能と権利、二つの観点から自動顔認証の課題を検証
自動顔認証技術の使用に反対する主な論点は、権利の侵害と実用面での技術的な問題の二つに集約されます。第一に、市民的自由を擁護する活動家たちは、この技術がしかるべき公の議論も経ないまま秘密裏に導入されてきた点を問題視しています。現在、米国では約50もの政府機関が顔認証ソフトウェアを使用していますが、多くが何の規制も受けずに運用されている結果、既にアメリカ人の約1億1700万人の顔が各種データベースに保管されていると報じられています。
これに対し、サウス・ウェールズ警察は、AFRが犯罪と戦う上でコストが安く、有効な武器であり、データ保護法の制約の下でのみ使用していると反論しています。しかし、英国政府の監視カメラ監督官でさえ、AFR技術の使用には「この問題は、複雑でわかりにくく、一般国民には理解しにくい」と述べ、もっと明確な規制基盤が必要であるという認識を示しています。
第二の論点は、技術的な精度、すなわち誤認の多さです。このシステムがそもそも適切に機能していないため、多くの人の身元を間違って認識しているという深刻な問題があります。特に、人種的マイノリティーに属する人々については、誤認のケースが後を絶たないという報告もあります。英国の市民的自由の擁護団体「ビッグ・ブラザー・ウォッチ」が公表した数字によると、サウス・ウェールズ警察によるAFRシステムは、2017年5月から2018年3月までの間に、データベースに登録された人物と「合致する」と判断した2,685人のうち、なんと2,451人が誤り、という驚くべき結果でした。誤認率が90%を超えるような技術を、市民の自由を制限する目的で無規制に使用することには、重大な懸念を抱かざるを得ません。
求められる国際的な規制と技術との向き合い方
さらに、大学の研究者たちは、特定のメイクアップを施したり、顔認証による特定を回避するように設計された眼鏡をかけたりすれば、このシステムを確実に欺くことができると証明しています。この事実は、AFRが犯罪対策として完璧なソリューションではないことを示しています。米マイクロソフトなど、顔認証技術の開発を進めている企業の中からも、技術の乱用の危険性を警告し、国際的な規制強化を求める声が上がっているのです。
私は、純粋に技術だけで人間社会が抱える複雑な課題を解決しようとする試みは、極めて危険だと考えます。技術それ自体は中立ですが、それを適切に、そして社会的に容認できる形で使えるかどうかが、すべてを左右するからです。そのためには、規制当局と市民の間に暗黙の信頼関係が不可欠です。もし、その技術の使用そのものが市民の信頼を損なうことになれば、結果として、技術で解決を図ろうとしているまさにその社会的な問題を、かえって悪化させてしまうことになるでしょう。顔認証技術が社会に浸透しつつある今、私たちは立ち止まり、その運用方法と市民的自由の保障について、深く、そしてオープンな議論を交わすべきときが来ているのです。

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