自動車産業の歴史にその名を刻む東洋工業(現マツダ)は、1960年代から70年代にかけて、まさに激動の時代を迎えていました。この記事では、創業者一族である松田家4代の物語の中から、2代目社長・松田恒次氏から3代目・松田耕平氏への事業承継と、それに伴う社内の混乱、そして会社の命運を左右したロータリーエンジン戦略の光と影に迫ります。
まず、世襲人事を巡る波紋から見ていきましょう。1961年、松田恒次氏は当時系列ディーラーである広島マツダの社長を務めていた長男の耕平氏を、突然、東洋工業の副社長として迎え入れました。30代の若さでの大抜擢は、当時の社内に大きな驚きと動揺をもたらしたと言います。役員たちからも反対の声が上がったこの強引な人事は、恒次氏の「息子に同じ屈辱を味わわせたくない」という強い親心に根差していたようです。恒次氏は終戦直後の1947年、労働組合や役員からの同族経営批判を受け、会社を追われた苦い経験がありました。しかし、この人事は社内に深い「しこり」を残すこととなり、後の松田家の経営に大きな影を落とすことになります。
恒次氏率いる東洋工業は、技術革新において世界をリードしていました。1967年に世界で初めてロータリーエンジンの量産に成功し、それを搭載した伝説的なスポーツカー「コスモスポーツ」を世に送り出したのです。この画期的なエンジンは、翌1968年に主力車種である「ファミリア」に、そしてその後「カペラ」にも搭載され、恒次氏は1970年代末には世界の自動車のほとんどにロータリーエンジンが採用されるだろうと、非常に楽観的な予測を立てていました。その強気な経営路線の最中、恒次氏は1970年6月に肺がんの診断を受け、同年11月15日に75歳の誕生日を目前にして、社長在任のままこの世を去ってしまうのです。
恒次氏の逝去の翌日、1970年11月16日に耕平氏が社長の座に就任しました。この時期は、まさに東洋工業がロータリーエンジンを武器に、自動車市場で大規模な攻勢をかけようとしていた重大なタイミングと重なります。耕平氏の社長就任後、会社の事業規模は目覚ましい拡大を見せました。恒次氏時代の最後の決算である1970年10月期(単体)の売上高は2,217億円でしたが、1974年10月期には5,182億円と、わずか4年間で約2.3倍の増収を達成しています。それに伴い、設備投資の拡大などによって有利子負債は3,159億円(約900億円増)に膨らみ、従業員も1万人近く増え、総勢3万5,325人となりました。
しかし、この拡大路線は、売上高の伸びに利益が追いつかないという深刻な経営体質を露呈させていました。1970年10月期の経常利益が145億円であったのに対し、その後は79億円、133億円、136億円と停滞し、1974年10月期には67億円へと大きく落ち込んでしまいます。決算の数字が示す通り、耕平氏が指揮を執っていた当時の東洋工業は、事業規模が大きくなった一方で、経営効率が低い「水膨れ体質」に陥っていたと言えるでしょう。
オイルショックの直撃とロータリーエンジンの失速
そして、経営をさらに窮地に追い込んだのが、1973年10月に勃発した「オイルショック」です。ロータリーエンジンは、従来のレシプロエンジンと異なり、おにぎりのような形をしたローターが回転することで動力を生み出す方式で、そのスムーズな回転フィールが魅力でした。しかし、構造上、燃費の悪さが大きな弱点でした。原油価格が急騰したオイルショックは、このロータリーエンジンの「燃費の悪さ」というアキレス腱を直撃し、市場での需要が急速に減少してしまったのです。この危機的な状況を受け、1975年10月期には東洋工業の経常損益は173億円という巨額の赤字に転落してしまいます。これは、恒次氏が強引に進めた耕平氏への世襲人事による社内の不協和音と、ロータリーエンジンへの過度な依存という二つの大きな要因が、最悪のタイミングで重なり合った結果でしょう。
危機感を強めた主力取引銀行である住友銀行(現三井住友銀行)は、常務の村井勉氏(後のアサヒビール社長、JR西日本会長)を東洋工業の副社長として派遣し、経営の立て直しを図りました。しかし、会社の低迷は続き、ついに1977年12月、耕平氏は社長辞任という苦渋の決断を下すことになります。SNSなどでの反響を見ても、この松田家の経営危機は、技術の粋を極めたロータリーエンジンが、時代の波によって一瞬で飲み込まれた「悲劇」として、多くの自動車ファンに今も語り継がれていることがうかがえます。
名門・松田家と広島カープの栄光
一方で、社長としての失意とは裏腹に、耕平氏は広島東洋カープのオーナーとしては、歓喜の瞬間を味わっていました。耕平氏が経営危機に直面していたのと同じ時期に、「赤ヘル旋風」を巻き起こしたカープは、1975年10月にセ・リーグで球団史上初となる優勝を達成します。当時の写真には、広島市の中心部に集まった約30万人ものファンによる優勝パレードの中、満面の笑顔を浮かべる耕平氏の姿が残されています。皮肉なことに、この優勝は、東洋工業が巨額の赤字を計上した決算月と同年同月だったのです。この出来事が、2年後の耕平氏の社長退任へと繋がる道筋を決定づけたと言えるでしょう。東洋工業の経営から、広島東洋カープのオーナー業へ――。松田家は、この激動の時期に、企業の経営からスポーツ界へと、大きな転換期を迎えたのでした。

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