原爆の試練と絆の継承:マツダ創業家を支えた「もう一つの松田家」の歴史

自動車メーカー、東洋工業(現在のマツダ)の創業者である松田重次郎氏には、恒次氏と宗彌氏という二人のご子息がいらっしゃいました。社長の座を受け継いだ長男の恒次氏と、その二歳年下の次男である宗彌氏の兄弟は、それぞれ別の形で松田家の事業を支えていたのです。宗彌氏は、1933年に三輪トラックを専門に販売する会社「マツダモータース」を立ち上げました。このマツダモータースは、当時、広島県産業奨励館(後に原爆ドームとなる建物)などが立ち並ぶ、広島市の中心地である猿楽町(現在の広島市中区)に本社を構えていたのです。

しかし、1945年8月6日、広島は原子爆弾という未曽有の悲劇に見舞われます。この日、宗彌氏は、たまたま来客の対応のために普段より早く自宅を出ていました。本社は建物の疎開作業によって、すでに本川橋西詰めの塚本町(現在の同市中区)へと移転したばかりでしたが、宗彌氏は、この新しいマツダモータースの本社で、7名の全従業員とともに原爆の犠牲となってしまうのです。これにより、同社は大きな試練に直面しました。これは、創業者一族にとっても、筆舌に尽くしがたい痛みとなったことでしょう。

原爆の悲劇を乗り越える絆の経営

マツダモータースが業務を再開できたのは、翌年の1946年1月になってからでした。この新生・マツダモータースの取締役には、まだ慶応義塾大学法学部に在学中であった耕平氏が名を連ねていたのです。耕平氏は恒次氏の長男、つまり松田家の嫡男に当たります。この人事を断行したのは、恒次氏の考えによるものでした。筆者の意見ですが、これは恒次氏が、肉親の不慮の死を無駄にせず、同時に宗彌氏の家族の将来を深く憂慮し、恒久的な支援を形にした、まさに「兄弟の絆」の証明ではないでしょうか。

恒次氏は、自身の長男をマツダモータースに送り込み、会社の再建を任せることで、いずれ経営を宗彌氏のお子さんたちに引き継がせようという明確な道筋を敷いたのです。耕平氏はその後、10年後の1956年に社長に就任し、この恒次氏の意図を見事に実現していきます。この歴史は、単なる企業の系譜を超え、「家族」や「絆」という深いテーマを内包しています。SNS上でも、「宗彌氏の家族を案じた恒次氏の心遣いに感動した」「原爆で途絶えそうになった事業を、血縁の絆でつなぎ直した物語に心を打たれた」といった、兄弟愛と家族愛を称賛する大きな反響を呼ぶことでしょう。

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