滋賀県近江八幡市の旧市街を歩くと、時代を忘れてしまうような美しい赤レンガの塀に囲まれたエリアが現れます。そこには1913年に建設された、気品あふれる3階建ての洋館が2棟並んでいます。この建物こそ、建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズが、その右腕であった吉田悦蔵、そしてレスター・チェーピンと共に知恵を出し合って設計した、情熱の結晶ともいえる「吉田家住宅」です。
この歴史的な住宅で生を受けた吉田与志也氏は、幼少期から古い書類やアルバムが積み重なる、少し埃っぽい3階の部屋を宝探しのように覗いて育ちました。2017年には滋賀県の指定有形文化財にも選ばれたこの家には、長年眠っていた膨大な歴史の断片が隠されていたのです。与志也氏が約8年前から本格的に調査を開始すると、そこからは祖父が大切に保管していた日記や写真など、なんと約6000点もの貴重な資料が発見されました。
無一文の英語教師が「建築の父」と呼ばれるまで
1905年、日露戦争の真っ只中に米国から来日したヴォーリズは、当初は近江八幡の商業学校で英語を教える教師でした。しかし、熱心なプロテスタントの伝道活動が災いし、わずか2年で教職を追われることになります。現代のSNSでも「信念を貫く姿が尊い」と反響を呼びそうなエピソードですが、当時の彼はまさに崖っぷちでした。しかし、1908年に京都YMCA会館の現場監督に就任したことが、彼の運命を大きく変えることになります。
「YMCA」とはキリスト教青年会の略称で、青少年の育成を目的とした国際組織です。彼はここで建築の才能を開花させ、教会や住宅の設計を次々と引き受けるようになりました。やがて彼の事務所は、同志社大学や関西学院大学、さらには重要文化財の神戸女学院といった名門校のキャンパスを手がけるまでに成長します。1920年代には家庭薬の販売でも成功を収め、その利益を惜しみなく滋賀の伝道活動へと注ぎ込んでいきました。
理想の暮らしを提案した「モデルハウス」の役割
ヴォーリズの教え子であり、後に「ヴォーリズ合名会社(現在の一粒社ヴォーリズ建築事務所)」の設立メンバーとなった吉田悦蔵。彼の自宅である吉田家住宅は、実はヴォーリズにとっての「モデルハウス」でもありました。リビングの暖炉や最新式の水洗トイレなど、当時の日本人には驚きの連続だったことでしょう。家具のデザインを微妙に変えて配置し、注文者が好みのものを選べるように工夫されていた点には、彼の細やかなホスピタリティが感じられます。
資料を読み解くと、1907年の失業直後、彼は軽井沢で「建築を伝道の資金源にする」という大きな決断を下していました。当時、日本でのキリスト教活動が活発化し、質の高い西洋建築の需要が高まっていたのです。ヴォーリズは、日本の風土に寄り添った良質な建物を良心的な価格で提供することで、瞬く間に信頼を勝ち取りました。私自身の目から見ても、彼の「清貧」と「ビジネス」を両立させたバランス感覚には、現代を生きる私たちが学ぶべき知恵が詰まっていると感じます。
地域に根ざした献身と女性たちの活躍
さらに興味深いのは、悦蔵が師であるヴォーリズよりも先に家を建てた理由です。1911年、軽井沢での出会いをきっかけに保育士養成所の教頭と婚約した彼は、愛する人のために家を整えました。残念ながら婚約は解消されましたが、その情熱は後にヴォーリズの妻・満喜子らによって、幼稚園の設立という形で結実します。近江ミッション(現在の近江兄弟社グループ)に関わった女性たちは、料理や西洋文化を通じて地域の女性や子供たちに新しい生き方を伝えました。
ヴォーリズ建築が今なお愛されるのは、単にデザインが優れているからだけではありません。そこに住まう人、集う人の幸福を第一に考えた「祈り」が込められているからではないでしょうか。1914年に撮影された写真に写るヴォーリズと悦蔵の晴れやかな表情は、志を共にする仲間との絆の深さを物語っています。こうした草の根の文化交流こそが、今の滋賀の豊かな風土を形作ったのだと、資料の山は私たちに教えてくれています。