日本を代表する経営学者である野中郁次郎氏が、自身の研究キャリアにおいて大きな転換点を迎えたのは1977年頃のことでした。当時、米国での学びを終えて帰国した野中氏は、日本企業のケーススタディー(特定の事例を深く分析して法則を見出す研究手法)を積み重ねていました。しかし、成功事例ばかりに光が当たる現状に、ある種の危機感を抱き始めていたのです。
物語には光と影があるように、組織のあり方を真に理解するためには「失敗の物語」こそが重要であると野中氏は直感しました。ビジネスの世界において、成功と失敗は常に表裏一体の存在です。短期的な勝利が長期的な没落の予兆であることも珍しくありません。しかし、当時の企業にとって自らの失敗をさらけ出すことはタブーであり、研究への協力を得ることは至難の業でした。
そんな折、富士電機製造の奥住高彦氏から「日本軍の失敗なら研究できるのではないか」という驚くべき提案がなされました。戦争は企業活動に比べて勝敗が短期間で明確に決まるため、組織の構造的な欠陥を抽出するには絶好の素材です。幼少期に米軍機による機銃掃射を経験し、死線をさまよった野中氏にとって、敗戦の理由を解明することは自身の原体験に決着をつける意味も持っていました。
周囲の猛反対を押し切った「防衛大学校」への移籍劇
調査の拠点を求めた野中氏は、1979年頃に防衛大学校の校長であった猪木正道氏を訪ねます。猪木氏は、軍事組織には理数系の知識だけでなく、人間社会の仕組みを解明する「社会科学」の視点が不可欠であると説き、大学改革に邁進していました。猪木氏はこの若き研究者の才能を見抜き、研究への全面協力を約束する代わりに、防衛大への移籍という大胆な条件を提示したのです。
当時の研究仲間たちは、この決断に一斉に反対の声を上げました。防衛大という特殊な環境に移ることは、学問の世界でのキャリアを閉ざしかねないリスクがあったからです。しかし、野中氏の心の中では「なぜ日本は負けたのか」という問いに対する探究心が、保身の気持ちを大きく上回っていました。最終的には恩義ある奥住氏の熱い言葉に背中を押され、新天地への移籍を決意したのです。
この運命的な決断こそが、後にビジネス界のバイブルとなる名著『失敗の本質』を生む土壌となりました。SNS上でも「組織論の原点はここにあったのか」「エリート軍隊がなぜ硬直化したのかを知ることは、現代のDX推進にも通じる」といった声が上がっています。一見すると遠回りに見える「失敗の研究」への挑戦が、結果として日本の経営学に不朽の金字塔を打ち立てることになったのでしょう。
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