都会の喧騒から離れ、本来の自分を取り戻す——そんな体験を求めて、自然の中に身を置く人々が増えています。2019年6月16日付の記事は、森が持つ深い癒やしの力を探り、その魅力に迫っています。例えば、新潟県の会社員である南雅子さん(50歳)は、北アルプスの麓、長野県安曇野市の森の中でヘアカットを体験した際、「今、本来の自分に戻った気がする」と、深く心に響く言葉を漏らしました。鏡には自身の姿と一面の緑、そしてひんやりとした空気の中に立ち込める雨上がりの草木の香りが映り、耳に届くのは鳥のさえずりや葉擦れの音、そしてハサミの音だけという、五感が研ぎ澄まされる特別なひとときだったそうです。
この「森の中でのカット」というユニークな試みを不定期で行っているのは、東京・表参道で美容室を経営する高柳潤さんです。流行を追いすぎる日々の仕事に疑問を抱いたことがきっかけで、屋外でのカットを始めてから、この年で5年目を迎えています。森の中では、パーマやシャンプー、カラーリングといった化学的な施術は一切できません。高柳さんは、森は五感が最も研ぎ澄まされる場所だと述べ、ここでのカットは髪型を「デザインする」のではなく、「整える」行為だと捉えています。お客さまは「こんな髪形にしてください」といった注文はせず、ただ森の中でくつろぎながら他愛のない話をする中で、高柳さんがその人の雰囲気や今の気分に合った長さに仕上げていくのです。石川県にお住まいの清水めぐみさん(37歳)も、最初は軽い気持ちで体験したものの、その忘れられない感覚に魅了され、「リラックスして体の力がふっと抜けて、よけいな荷物をおろした感覚」を求めて、年に2回ほど森を訪れ、「自分を取り戻しにくる」と言います。
🌿世界が注目する日本の「森林浴」と「森の案内人」の視点
国土に占める森林の割合が世界全体で30%であるのに対し、日本は67%と、先進国の中ではトップクラスの「森の国」です。この豊かな自然の中で、森の空気に触れてリフレッシュする行為、すなわち「森林浴(Shinrin Yoku)」という言葉が、現在、アメリカをはじめとする海外でも広く浸透しつつあります。この日本特有のウェルネス文化は、多くの現代人が潜在的に抱える自然への渇望を満たしているのでしょう。
全国の森を案内するツアーを開催している“森の案内人”である三浦豊さん(41歳)も、森に呼ばれた一人です。三浦さんは、参加者に対して「このケヤキ、いい枝ぶりですね。木は動けないので、ここで生きてここで死にますから、枝ぶりに全てが出てくるんです。木の顔です」などと、深い洞察に基づいた解説をしてくれます。大学卒業後に庭師として働いていた頃、「いい庭を造るためには自然を知りたい」という思いから森を歩き始めた三浦さんですが、次第に木々が生きているという感覚に気づき、手を加えない自然本来の美しさに感動した結果、庭師を辞めることになったそうです。その後、全国3,000カ所以上の森や自然の名所を歩き続けています。
三浦さんのツアーに参加した都内在住の会社員である見澤尚史さん(54歳)と郁江さん(52歳)ご夫妻は、森の中では同じ木でもさまざまな姿で存在しているのを見て、「なんだか、いとおしくなる。人間と同じだなって」と、自然と人間が持つ共通の美しさに気づいたと言います。三浦さんは、そんな森を「実家みたいなもの」だと表現しています。そこに戻ると、誰もが心からほっとしたり、くつろげたりできる場所ですが、一方で、しばらく訪れていないために少々居心地悪く感じる人もいるかもしれない、という含蓄のある表現です。
🌳文化人類学・生物学から迫る「人が森に惹かれる理由」
紀元前1万年頃に農耕と牧畜が始まるまで、私たちの祖先であるホモ・サピエンスは約20万年にわたり、森の中で狩猟や採集をして暮らしてきました。では、現代人がなぜこれほどまでに森に惹かれるのでしょうか。
文化人類学者で立教大学教授の奥野克巳さんは、森に入るにつれて、私たちが文明によって築き上げた「自分自身」がだんだんと形を失い、「原点に近づいていく」感覚があると述べています。奥野さんは、マレーシアのサラワク州(ボルネオ島)の熱帯林で暮らす狩猟採集民「プナン」と、これまでに約600日間も行動を共にしています。森で食料を探すことに一日の大半を費やすプナンには「時間の概念そのものが希薄」であり、人間がリズムを作る農耕とは異なり、彼らは「森のリズムに従いながら生きている」そうです。また、プナン語を理解できるようになって気づいた点として、彼らの会話の中では、人間と動物とが並列で扱われており、その線引きがはっきりしないことを挙げています。森で暮らすということは、「人間が主体ではない」世界観で生きること、それが本質なのでしょう。
生物学の観点からも、人が森に惹かれる理由が研究されています。京都大学准教授の伊勢武史さんは、5年ほど前から森と都会での心理状態や脳波の変化について調査を行っています。現在までに確認されたことの一つとして、森の中の渓流に手を浸すと、緊張とリラックスが共に高まる傾向があるそうです。伊勢さんは、人間が森に魅力を感じるのは、それが生き残り、繁殖するために有利だったから、という進化の過程で身につけた本能的な欲求だと仮説を唱えています。森を訪れることで、私たちの奥底にある本能的な欲求が満たされているのかもしれません。
これらの研究や体験談を総合すると、森は単なる景色や自然の場所ではなく、現代社会で擦り減った心を癒やし、私たちを本能的な原点へと立ち返らせる、かけがえのない存在だと言えるでしょう。SNSでも、#森林浴 や #森が好き といったハッシュタグと共に、森で撮影された美しい写真や「心が洗われた」「ストレスが軽減した」といった体験談が多数投稿されており、多くの方がこの「森の力」を享受していることがわかります。慌ただしい毎日の中でこそ、私たちも森に耳を澄まし、本能の声に素直に応じてみることが大切だと感じます。
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