版画芸術の世界において、その揺るぎない実力と個性で世界的な評価を獲得しながらも、日本では一部のファンを除き、その名が広く知られていない一人の巨匠、平塚運一(ひらつかうんいち)彼の圧倒的な芸術家としての自負を象徴するのが、70歳を過ぎてから制作を開始し、80歳の時に完成させた木版画集「裸婦百態」であると言えるでしょう。わずか1枚が10センチメートル×15センチメートル程度の小品にもかかわらず、黒と白のモノトーンで表現された100の裸婦像は、それぞれが異なるポーズと強い個性を持ち、観る者の視線を釘付けにする魅力にあふれています。
この記念碑的な作品の完成から20年後の1995年、平塚氏の100歳を記念して出版された書籍『裸婦百態 詩と版画』(阿部出版)には、氏の「提唱 裸婦礼讃」と題された、もはや「宣言」とも呼べる力強い文章が掲載されています。「私の黒白版画は 天下一品である そこには 森羅萬象が生きている 特に裸婦は絶品である」と、その内容は一切の迷いがない絶対的な自信に満ちています。このような自己肯定感は、長きにわたり芸術一筋に生きてきた真の表現者にしか持ち得ない、並々ならぬ気概を示すものではないでしょうか。
その証拠に、平塚作品のコレクターでもあったアメリカの著名な作家ジェームズ・ミチェナー氏は、この本の巻頭で「黒白版画と卓越した刻線」という一文を寄せています。氏は、平塚氏が現代版画の第一人者であり、さらには世界的な版画家として名高い棟方志功(むなかたしこう)でさえ、平塚氏と同じ路線で制作していたという点が、彼の作品の価値を一層高めていると評価しているのです。この言葉は、平塚氏が棟方氏をも超える存在として海外で認識されていた事実を物語っています。私見ですが、世界的な評価を受けながらも、その功績が日本では正当に評価されていない現状は、日本の美術界における構造的な課題を示唆しているように感じられます。
同じく同書に寄稿した美術評論家の本間正義氏は、平塚氏がアメリカで30年余りの時を過ごした背景に言及し、日本の美術界を構成する「幾多の美術団体」の「わずらわしい」しがらみから抜け出し、自由な精神(エスプリ)を持って創作に没頭するには、政治都市であるワシントンが、芸術都市ニューヨークとは異なり、「一人自らの中に沈潜し没頭してゆくには、むしろこの上ない所」であったのではないかと考察しています。しかし、この長期間にわたる日本からの不在こそが、国内での平塚氏の知名度を薄れさせてしまった大きな要因となってしまったのでしょう。2018年夏に約300点の作品を集めた大規模な回顧展を担当した美術館の上席学芸員である西山純子氏も、「(平塚の)業績の大きさが評価されていない」と、改めてその現状を憂いています。
✨100歳をホワイトハウスが祝福!世界に認められた創作版画のパイオニア✨
平塚運一氏の版画家としての凄さを物語るエピソードは、国外での高い評価に集約されます。彼が30年余りのアメリカ生活に終止符を打ち、帰国して半年後の100歳の誕生日を迎える10日前に、なんとワシントンD.C.のホワイトハウスから、ビル・クリントン大統領とヒラリー・ロータム・クリントン夫人からの、氏の生誕100年を祝福する英文のメッセージが届いています。「お誕生日おめでとうございます 貴方の百歳のお祝いを私共は最高に嬉しく祝福申し上げます(和訳)」という温かい言葉は、彼がいかにアメリカで、そして世界で尊敬されていたかを雄弁に伝えていますね。
日本の版画、と聞くと、まずは江戸時代の浮世絵が連想されます。葛飾北斎や東洲斎写楽といった巨匠たちの作品は「ukiyo-e」として世界的な評価を確立しています。20世紀初頭に日本にもたらされた「創作版画」も、かつての浮世絵と似た状況にあり、国内での関心度は低いものの、海外では非常に高く評価されているのです。「創作版画」とは、浮世絵のように絵師・彫師・摺(すり)師が分業するのではなく、作家が描画、彫り、摺りの全工程を一人で行い、自己表現としての可能性を追求する芸術ジャンルのことです。複製手段としての版画ではなく、芸術作品としての版画を追求したこの分野は、19世紀のヨーロッパで誕生し、日本では洋画家の山本鼎(やまもとかなえ)が1904年に発表した「漁夫」がその始まりとされています。
山本氏らが中心となり日本創作版画協会を結成したのが1918年6月で、彼らは創作版画の振興と普及、そして既存の美術展(帝展など)での版画の受け入れを目指しました。しかし、版画が美術の一分野として公的に認められるまでには、長い年月が必要でした。美術評論家の河北倫明氏も、版画が日本の美術界で公式な位置を確保したのは「昭和に入ってからのことにすぎず」と述べ、洋画部の「添えもの」のような形で受け入れられていた、という歴史的な事実を指摘しています。その一方で、第二次世界大戦後、特に1950年代以降に日本の版画が欧米で人気を博した状況を捉え、「後進領域とも思われがちだった版画が、日本画、洋画、彫刻などの先進分野をしりめに、花々しく国際舞台にのりだしているのは、壮観である」と、その国際的な躍進を称賛しているのです。
🎨デッサンの厳しさを胸に、運命的な出会いが開いた芸術の扉🎨
平塚氏が美術の道を志したのは10代半ばのことでした。祖父が宮大工であったため、彼は幼い頃から刃物や木くずに慣れ親しんで育っています。商業学校に進学した後も美術への関心は衰えず、卒業試験の前日に中途退学を決断するという、熱い情熱と大胆な行動力を持っていたことが伺えます。市役所に勤めながら独学で絵の勉強を続けていた彼にとって、将来を決定づける運命的な出会いとなったのが、画家である石井柏亭(いしいはくてい)氏でした。1913年(大正2年)夏に松江で開催された洋画講習会に参加した平塚氏は、柏亭氏による素描や色彩、構図に関する明快な指導に深く感激し、特に水彩画を激賞されたことで、美術の道へ進む決意を固めたと言われています。
柏亭氏が描いた水彩画に触発された平塚氏は、同じ図柄で自ら彫り、自ら摺る(摺り)という木版画を制作し始めました。そして、1915年秋には父を説得して上京し、柏亭氏の門を叩いています。柏亭氏は、平塚氏を洋画を木版に起こす名手として知られていた彫師の伊上凡骨(いがみぼんこつ)氏に引き合わせました。内弟子として半年間にわたる修行で、平塚氏は彫刻刀の扱い方から、紙や墨を含めた木版画制作の基礎を徹底的に学んでいます。平塚氏は生涯を通じて柏亭氏に深い敬意を抱き続け、「裸婦百態」の文章の中でも「画家を志した十五、六歳の頃、石井柏亭先生よりデッサンの厳しさを教えられ、以来今日に至るまで、一日もデッサンを欠かしたことはありません」と、その教えが自身の芸術家としての根幹であることを明かしています。
🗣️「棟方志功と並ぶ巨匠がなぜ無名?」SNSでの反響を分析
平塚運一氏の記事は、インターネット上でも大きな反響を呼んでいます。特にSNSでは「棟方志功と並ぶ巨匠が、国内でこれほど知られていないのはなぜだろうか」「日本美術史の闇に埋もれた逸材だ」といった驚きと再評価を求める声が多く見られます。平塚氏が晩年に制作した「裸婦百態」のモノトーンの美しさと迫力について、「黒と白だけで、これほどの生命力を表現できるのはまさに神業」「70歳から裸婦像を制作し始めるエネルギーがすごい」といった称賛のコメントが寄せられていました。また、彼が海外で受けた高い評価、特にホワイトハウスからの祝福やジェームズ・ミチェナー氏の言葉が、日本の美術教育や評価体制への疑問を投げかけるきっかけになっているようです。「芸術は海外で評価されて初めて日本で認められるという状況は、いつの時代も変わらないのだろうか」という意見も散見されました。
私見ですが、平塚氏が築き上げた、一人で全てを完結させる「創作版画」の精神は、現代のクリエイターが持つべき自立した制作姿勢にも通じるものがあると感じます。彼の作品、特に「裸婦百態」に込められた研ぎ澄まされたデッサン力と、彫りの技術は、まさに「木版画の神様」と呼ぶにふさわしいものです。日本の美術界における長年の「団体」のしがらみを乗り越え、世界を舞台に孤高の道を歩んだ平塚運一氏の功績は、これからさらに深く掘り下げられ、正当に評価されるべきだと強く信じています。
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