2019年09月29日、私たちは改めて「命」と向き合う季節を過ごしています。お盆の猛暑が和らぎ始めたころ、私は大阪の天王寺動物園を訪れました。そこで開催されていた「戦時中の動物園」展は、かつて人間の都合で命を奪われた動物たちの剥製(はくせい)が並ぶ、静かながらも圧倒的な喚起力に満ちた空間です。
剥製とは、動物の死体から皮を剥ぎ、樹脂などで形を整えて生前の姿を再現した標本を指します。1943年09月、空襲による猛獣脱走を恐れた日本でも、多くの動物が毒入りの餌によって殺害されました。その毒を拒み続け、最後は可愛がっていた飼育員の手で絞殺された一頭のヒョウ。そのガラス玉の瞳は、今の私たちに「ヒトという存在をどう思うか」と問いかけてくるようです。
原発事故の影で「悲鳴を上げる柱」と孤独な子牛
それから半月ほど遡る2019年08月、私は福島県南相馬市の半杭牧場を訪れました。そこには、原発事故の影響で避難を余儀なくされた酪農家の苦悩が刻まれています。かつて40頭の乳牛がいた牛舎に残されていたのは、極限まで齧(かじ)り取られた木製の柱でした。飢えに苦しむ牛たちが必死に首を伸ばし、柱を食べることで命を繋ごうとした凄惨な痕跡です。
放置すれば他人に迷惑がかかるという「善意」ゆえに、繋がれたまま餓死した牛たち。その後、暗闇の牛舎で発見されたのは、蛆(うじ)の海に沈む死体と、その傍らで奇跡的に生き延びていた一頭の子牛でした。飢餓の中で母牛から生まれ、死にゆく母の乳を吸って生き延びた孤独な命の物語は、SNSでも「涙が止まらない」「人間の業の深さを感じる」と大きな反響を呼んでいます。
生命への礼儀を問い直す―人間と動物の新たな関係性へ
私たちは歴史を通じて、動物を狩り、飼い、利用することで文明を築いてきました。しかし、自分たちの都合で命を選別する「生殺与奪権(せいさつよだつけん)」、つまり他者の生と死を一方的に支配する権利を、ヒトが独占し続けることに正当性はあるのでしょうか。国家の都合で殺された戦時下の猛獣と、原発事故の犠牲となった家畜たちの姿は、現代の私たちが抱える傲慢さを浮き彫りにします。
2019年には生田武志氏の著書『いのちへの礼儀』が出版され、話題を集めています。人間が動物を支配し、その死から利益を得るシステムを見直さなければ、真の意味での「人間の解放」もあり得ないでしょう。生命という大きな循環の中で、私たちは今こそ「生命への礼儀」を学び直すべきではないでしょうか。この夏、私が目にしたヒョウと子牛の姿は、その重要な一歩となるはずです。
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