2019年6月19日、日本の医療制度が直面する大きな課題、すなわち**「限られた資源をいかに効率的に配分するか」に切り込む重要な議論が展開されました。この記事では、一橋大学の中村良太准教授と井伊雅子教授による見解を中心に、公的医療保険に本格導入された「医療技術評価」の意義と、それがもたらす医療の未来について、分かりやすく解説します。
皆さんは「社会保障の充実」と聞いて、どのようなイメージをお持ちでしょうか。単に予算を増やすことでしょうか。それよりも、「国民が満足する良い医療を提供すること」こそが、社会保障充実の核心であるはずです。しかし、多くの人が未だに「良い医療」=「高額な医療機器による検査や新薬をはじめとする高額な医薬品の投与」といった、贅沢を尽くしたものだと誤解しているかもしれません。まさに、この限られた医療資源を有効に活用するための羅針盤となるのが、費用対効果という視点なのです。
医療サービスの効率性を測る上で、「費用」と「効果」の両面を科学的に評価し、意思決定に役立てるプロセスが「医療技術評価(Health Technology Assessment:HTA)」です。この評価は、巷で誤解されがちな「医療費削減」だけを目的とするものではありません。高額でも非常に効果の高い医療と、高額な割に効果が薄い医療を明確に区別し、公的予算の配分に優先順位を付ける役割を果たします。これにより、医療に投入される多額の保険料や税金を負担する納税者の利益にも繋がり、エビデンス(根拠)に基づいた効率的な医療が患者さんの利益にも結びつくでしょう。
また、この評価プロセスによって、予算配分の決定過程が透明化されます。政策担当者は「なぜこの医療技術に予算を割くのか」という説明責任を果たしやすくなるだけでなく、医薬品・医療機器関連企業にとっても、将来の投資判断がしやすくなるという大きな利点があるのです。
費用対効果評価の本格導入と国際比較
医療技術評価に対しては、「医療へのアクセス制限につながるのではないか」という懸念や誤解もあります。しかし、アクセス制限の真の原因は財源の制約であり、評価を行うこと自体が原因ではありません。限られた財源という現実と向き合うからこそ、国民全体の利益のために、予算配分の優先順位を考えざるを得ないのです。もちろん、評価では単純な費用対効果だけでなく、社会的・経済的・倫理的な個別事情を考慮するプロセスも組み込まれており、政府だけでなくメーカー、医療関係者、患者さんなどの利害関係者が広く話し合う「ゆとり」が設けられるのが一般的です。
日本においては、アジア諸国と比べ遅れをとりながらも、2019年4月から公的医療保険制度に医療技術評価が本格導入されました。これは、診療報酬(医療機関が提供する医療サービスに対する公定価格)の設定と調整に適用されることになります。日本では、医薬品などが安全性さえ確認されれば費用対効果を問わず公的保険で給付されるという特異的な側面がありましたが、今回の導入は、その常識に一石を投じるものです。諸外国の運用と比べると、報酬(価格)の設定・調整に限定的に導入される形で、給付の可否の判断までは踏み込まないため、限定的な印象はあります。しかし、この評価が診療報酬設定の中に明確に規定され活用され始めたことは、医療の適正化に向けた重要かつ大きな一歩であることは間違いありません。
この費用対効果評価の本格的な政策導入をめぐる議論の空気を一変させたのは、2016年4月4日の財政制度等審議会財政制度分科会における、高額な抗がん剤「オプジーボ」を巡る報告でした。この報告では、肺がんへの適応拡大により財政影響が1.7兆円を超える可能性が指摘され、国民全体に大きな衝撃を与えました。この反響はSNSでも広く拡散され、「高額薬剤の価格問題は他人事ではない」「国の財政を真剣に考えるべきだ」といった意見が飛び交い、医療費の議論が一気に注目を集めるきっかけとなりました。
また、この報告では抗がん剤だけでなく、生活習慣病などの外来診療の課題も指摘され、包括化が提案されました。包括化とは、検査や投薬など出来高に応じて医療機関へ支払うのではなく、診断に応じて一定の報酬を定める支払いのやり方です。単に支払いを包括化するだけでは問題は解決しませんが、費用対効果に基づいた適切な価格水準で包括化することは、現在の世界的な潮流でもあり、日本でも将来、医療技術評価の対象とすべき重要な課題でしょう。
健診・がん検診のあり方見直しが急務
「早期発見早期治療」という言葉のもと、「とにかく検査をして早期に疾患を発見し医療的な介入をすることが質の高い医療だ」と誤解している方も少なくありません。しかし、日本の健康診断(健診)やがん検診は、経済協力開発機構(OECD)の報告書でも指摘されているように、独特な実情があります。OECD諸国では、費用対効果などの科学的エビデンスに基づき、健診やがん検診の内容が全国一律で標準化されています。
一方、日本では国レベルのガイドラインが軽視され、自治体や企業が健診・検診内容を独自に決めています。さらに、受診自体が目的化し、その有益性や害について十分な説明がないまま実施され、事後の継続的なケアの仕組みも不十分なのが現状です。果たして、健診・検診に費やした分だけ健康の改善・維持に繋がっているのかは不明瞭だと言えるでしょう。「がん検診受診率の向上」のみを目標とする自治体が多いものの、エビデンスに基づいて「誰が」「いつ」「どの健診・検診を受けるべきか」という情報共有が進んでいないのは大きな問題です。
実際、日本ではエビデンスで推奨される対象者が適切なタイミングで検診を受診する率はOECD平均より低いにも関わらず、必要性の乏しい人が受診して健康被害を起こすなど、有益性より害の方が大きいケースも少なくありません。中村准教授と井伊教授は、この現状を打破するためにも、健診・検診の費用対効果評価と、それに基づくガイドラインの再構築が急務であると警鐘を鳴らします。
海外の経験から学ぶ、医療提供者の責務
2019年5月には、世界家庭医機構のアジア太平洋地域学術総会が京都で開催され、医療技術評価に関するシンポジウムで筆者らも座長・報告を担当しました。この場には、日本を含むアジアで評価を積極的に取り入れている韓国・タイの政策担当者・研究者、そしてこの分野の世界的なリーダーである英国のNICE**(国立医療技術評価機構)の最高統括責任者が集結し、パネル討論が行われました。
経済発展の段階や医療制度、文化は異なるものの、国民皆保険または皆保障を達成し維持しているこれらの国々(日本を除く3カ国)からは、「医療提供者は目の前の患者さんだけでなく、国民全体・医療制度全体の利益を見据えて費用対効果を考慮した診療をすべきである」との考えが示されました。そして、医療技術評価機関が、そのための研修や診療ガイドラインの策定に深く関与していることが説明されたのです。
この事実は、日本の医療技術評価への示唆に富んでいます。現状、日本では評価が高額な医薬品や医療機器の**「価格下げの正当化」と見なされがちですが、それはあくまで部分的な側面に過ぎません。私見として、この議論は単なるコストカットではなく、「国民の健康と医療の持続可能性」**という二つの大命題を両立させるための、医療界全体の意識改革だと捉えるべきです。費用と効果を両にらみしつつ、保健医療のあり方全体を見直すプロセスとして、この医療技術評価が認識され、幅広く活用されることを期待しています。

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