2019年5月、中部経済連合会(中経連)が公表した約80ページにも及ぶ提言書が、行政や産業界に大きな波紋を広げました。その提言書は、「南海トラフ地震などが中部経済界に与える影響を最小化するために」と題され、崩壊した堤防や火災を発生させた港湾といったショッキングな写真を表紙に用いており、「表紙からして奇抜でインパクトが強い」と話題を集めたのです。これは、愛知県をモデルケースとして、社会インフラ(社会基盤)の抱える問題点を具体的に指摘し、喫緊の課題である災害対策の取り組みを加速させることを目的として作成されました。中経連は、企業の自力での復旧、すなわち「自助」が基本であるとしながらも、社会インフラの被害を最小限に抑えなければ、経済活動の早期回復は絶対にありえないと警鐘を鳴らしています。
提言書が指摘する問題点は、中部地方の根幹に関わるものばかりです。例えば、災害発生時の復興に不可欠な緊急輸送道路について、中部圏には約1万3000キロメートルの道路が存在しますが、市町村が管轄する道路では、予算不足を理由に、いつまでに耐震化を完了させるかという整備計画すら存在しない状況が見受けられます。また、物流の要である港湾の岸壁(船舶を接岸させるための施設)の耐震化も遅れており、名古屋港でさえ、整備率は39%にとどまっているのです。さらに、海抜ゼロメートル地帯が広がる濃尾平野を流れる木曽三川の堤防については、その半分の区間で耐震対策が未整備の状態であると報告されています。
このようなインフラの脆弱性が明らかになったことで、中部地方以外の地域にも危機感が波及しています。2019年4月8日には、津市のホテルで開かれた会合で、三重県の経済界が中経連の豊田鐵郎会長らに対し、調査対象地域を三重県にも広げるよう要望いたしました。中経連も関西などの経済団体との連携を呼びかける方針を打ち出しており、災害発生時に危険度の高いインフラの問題が、全国的な関心事として浮上する可能性が高まっています。これは、南海トラフ巨大地震という未曽有の大災害に備える上で、一刻の猶予もないことを示していると言えるでしょう。
インフラ対策遅延の構造的な問題と高まるコスト負担
なぜ、これほどまでにインフラの震災対策が遅れてしまっているのでしょうか。背景には、高度経済成長期に整備された施設の老朽化が急速に進んでいること、そして行政による管理主体が多岐にわたり、統一的な対策が進みにくいという構造的な問題が存在すると考えられます。例えば、愛知県安城市にある安城浄水場は、豊田市をはじめとする9市3町に1日約30万立方メートルもの工業用水を供給する重要な拠点であり、中部電力最大の碧南火力発電所の稼働にも欠かせません。にもかかわらず、この浄水場の耐震化は未完了の状態が続いています。稼働を続けながらの改修作業となるため、工期が長期化しているのが実情で、トヨタ自動車グループや多くの仕入れ先工場が集積するこの地域においては、防災対策の遅れに対する懸念が広がっているのです。
さらに、地震対策に必要なコストが急激に膨らんでいることも大きな課題です。愛知県企業庁は、4つの工業用水を運営し、合計約800キロメートルに及ぶ配水管路(水を送るためのパイプ)を管理していますが、1961年から1975年にかけて給水が開始された施設が多く、全体のおよそ4割で対策が必要との見解もあります。2015年度における既存施設の改良費約30億円のうち、耐震化にかかる費用は約3割でしたが、2019年度には改良費全体が65億円に増加し、そのうち耐震化の割合は8割にまで急増している状況です。それでも、名古屋市などに水を供給する愛知用水の液状化リスク(地震動により地盤が液体のように軟らかくなる現象)への対策など、多くの課題が残されており、「防災計画は進めているものの、予算と人手に限りがあるため、どうしても時間がかかってしまう」と愛知県企業庁は苦しい台所事情を明かしています。
また、インフラの管轄主体が異なることによる弊害も指摘されています。西三河工業用水を例にとると、水源である矢作ダムは国土交通省、上流は農業用水と共用されており、そこから先の工業用水は愛知県企業庁が管轄するというように、一つの系統に対して複数の管理者が存在しているのです。こうした状況に対し、中経連の調査に携わった名古屋大学の福和伸夫教授は、「すべてのインフラ対策は非現実的である」としながらも、「各省庁、県市町村、産業界が一体となって全体を見渡し、産業に致命的な影響を与える基幹インフラ(経済活動や国民生活を支える特に重要なインフラ)の対策を急ぐべきだ」と提言されています。さらに、インフラの運営主体を株式会社化し、民間資金を積極的に活用することも一つの解決策として提案されているのです。
経済被害を減らすレジリエンス強化の提言と企業の取り組み
土木学会の試算によると、道路や港湾などの耐震対策を強化すれば、今後20年間で日本全体が被る経済被害を4割から6割も減らすことが可能であるとされています。南海トラフ巨大地震が発生した場合、東海4県だけでも直接的な経済被害が70兆円近くに上ると想定されている状況を鑑みると、この提言の重要性は計り知れません。もし、企業の自助努力と地域との連携に加えて、産官学が一体となってインフラの災害対応を強力に推し進めなければ、「国民生活の水準が長期にわたって低迷し、二度と経済大国とは呼ばれなくなる状態に転落してしまう」と土木学会は強い言葉で警鐘を鳴らしています。
この危機的状況を乗り越えるためには、まず、国から市町村に至るまで、情報公開があまりにも不足しているという中経連の指摘を真摯に受け止める必要があるでしょう。行政や産業界が「不都合な真実」であるインフラの脆弱性から目を背けることなく、一丸となってこの問題に向き合うことが、災害対策のカギとなります。一方で、自動車用触媒の大手企業であるキャタラー(静岡県掛川市)は、自社の立地が南海トラフの震源域に近く、浜岡原発から直線でわずか7キロメートルというリスクを徹底的に排除する取り組みを実践しています。砂川博明社長は、「逆境をバネに、事業継続の力を徹底的に高める」と決意し、研究開発機能を約30キロメートル離れた場所に移転いたしました。これは、インフラの甚大な被害や原発事故まで想定し、人命を守り、供給責任を果たすための備えを強化するもので、多くの企業や団体が同社を視察に訪れるほど注目を集めています。
キャタラーは、こうした対策がコスト負担を伴うことは認めつつも、「リスク対策は顧客対応の要であり、結果として企業の競争力の向上につながる」と語っています。このように、企業が自助努力として、サプライチェーン(製品が消費者に届くまでの流れ)全体のリスクを徹底して排除し、災害に強い社会、すなわちレジリエンス(外力に対する回復力)の高い社会基盤を構築していくことが、今後の日本経済の未来を左右するでしょう。SNS上でも、「インフラ対策が遅れているのは知っていたが、これほど深刻だとは驚いた」「民間資金を活用するアイデアは現実的かもしれない」「自分の地域のインフラも心配だ」といった、危機感を共有し、具体的な対策を求める声が多く見受けられ、この問題への関心の高さがうかがえます。
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