近年、「認知症予防」という言葉が盛んに取り上げられ、その関心の高まりを感じている方も多いでしょう。厚生労働省の推計によると、2015年(平成27年)現在、日本国内の認知症の人口は520万人に達し、さらに認知症予備軍である軽度認知障害(MCI)の方を加えると、その数は800万人以上にも上ることが判明しているのです。このような状況を背景に、メディアでは認知症対策に関する情報が頻繁に報じられています。
こうした社会的背景のもと、一部の民間企業ではシニア層を対象とした健康支援サービスが立ち上がっています。ある店舗の大きな垂れ幕には「認知症は予防できる」と力強く掲げられており、その言葉に期待を寄せて通っている参加者もいるようです。しかし、現時点の研究に基づいて、認知症は「予防できる」と断言してしまって良いのでしょうか。結論から申し上げますと、その答えは現段階では「ノー」であると言わざるを得ません。
かつて認知症が「痴呆(ちほう)」と呼ばれていた時代は、一度症状が現れてしまうと、予防どころか症状の改善すら不可能だと考えられていました。ところが、東北大学の川島隆太教授らが実施した研究により、科学的な手法に基づいた脳のトレーニングを正しく行えば、たとえ重度の認知症患者であっても、症状を改善させられることが明らかになってきたのです。例えば、以前に広く紹介された「学習療法」も、この種のトレーニングの一つです。
トレーニングによって、脳内の神経細胞同士の結合(シナプス)が強化され、脳の体積が増加するだけでなく、脳を構成する電気的な回路(ニューラルネットワーク)の働きも活発になることが分かっています。その結果、衰えていた認知機能の多くが回復したり、向上したりするのです。実際に、認知症と診断されていた方の症状が「改善」し、日常生活に戻ることができた事例は数多く存在しているのが現状です。
認知症予防で確かな効果が認められているのは「有酸素運動」
では、認知症を「予防」するという観点から見て、どのようなトレーニングが効果的と言えるのでしょうか。現時点において、ウォーキングなどの有酸素運動には認知症の予防効果があることが、数多くの研究データから確証を持って分かっています。一方で、それ以外の脳のトレーニングについては、その効果が確実なものだと断言するには至っていないのが実情です。
このような状況は、研究の手法に起因しています。東北大学などの研究機関では、集団を対象とした追跡調査を通じて、生活習慣と身体の異変との因果関係などを調べる疫学(えきがく)という手法を用いて、トレーニングなどの効果を見定めています。この追跡調査は非常に長い期間を要するため、多くの新しいトレーニング手法では、まだ疫学的に十分なデータが揃っていないのです。
こうした研究の進捗状況から、脳のトレーニングについても、研究者としては「認知機能改善の効果がありそうだ」という表現に留めるしかないというのが正直なところでしょう。しかし、実際にトレーニングで認知機能が改善した事例が多数確認されているため、トレーニング自体が無意味であるとは誰も考えていないはずです。むしろ、積極的に取り組む価値は大いにあると私たちは考えています。
認知症の原因と予防研究の未来
認知症の原因となる病気は70種類以上あるとされていますが、その中でもっとも高い割合を占めているのがアルツハイマー病です。この病気の発症には、アミロイド$\beta$(ベータ)とタウ蛋白(たんぱく)という2種類のタンパク質が深く関わっていることが指摘されています。これらのタンパク質は、なんと20歳を過ぎた頃から脳内に蓄積され始めることが分かっているのです。
このため、高齢期になってアルツハイマー病と診断された時点では、すでに脳内にこれらのタンパク質が相当量蓄積していると考えられます。このタンパク質の蓄積を抑えるためには、実は20代といった比較的若い頃からの生活習慣が非常に重要になってくるのです。しかし、その効果を検証するには、やはり途方もない長い期間が必要となり、認知症予防の研究はまだ道半ばにあると言えるでしょう。
以上の科学的な背景を踏まえますと、「この製品やサービスを利用すれば、認知症は必ず予防できる」といった表現で宣伝しているものがあれば、それは現時点では鵜呑みにすべきではないと認識しておく必要があります。私たちにできることは、現時点で確かな効果が認められている有酸素運動を習慣化するとともに、認知機能の改善が期待されるトレーニングに積極的に挑戦し、自身の脳と体の健康を守っていくことでしょう。
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