2016年7月の登場以来、社会現象を巻き起こしているスマートフォンゲーム『ポケモンGO』。米シカゴ市のグラント公園では2019年6月13日、数千人もの人々が珍しいモンスターを求めてスマートフォンを片手に歩き回る姿が見られ、カリフォルニアから息子と訪れたという45歳のスチュアートさんは「息子に引きずられて、私も夢中になってしまいました」と熱狂ぶりを語っています。この革新的なゲームは、リリースからわずか1ヶ月でスマホゲーム史上最高のダウンロード数と売上を記録し、これまでに累計ダウンロード数は10億を超え、利用者がゲームをしながら歩いた距離は230億キロメートル以上という驚異的な数字を叩き出しています。
この大ヒット作を生み出したのが、アメリカのIT産業の聖地であるシリコンバレー発の企業、ナイアンティック(Niantic)です。『ポケモンGO』の売上は既に20億ドル(約2,000億円)を超えており、未上場ながら企業評価額が10億ドルを超えるスタートアップ企業である「ユニコーン企業」として確固たる地位を築いています。では、なぜシリコンバレーの技術と、日本の大人気コンテンツであるポケモンが結びついたのでしょうか。その奇跡的な出会いは、2014年4月1日のエイプリルフールにまで遡ります。
当時、Googleの社内ベンチャー「ナイアンティック・ラボ」に所属していた川島優志氏(43歳)が、リーダーのジョン・ハンケ氏(51歳)のもとに駆け寄ったのは、Google社内のエイプリルフール企画の動画がきっかけでした。その動画は、Googleマップ上でポケモンを探すという架空の技術を紹介する内容で、新作ゲームのアイデアを模索していた川島氏らは、これこそが求めていたものだと直感したのです。このジョークを仕掛けたのは、Googleの地図部門に在籍していた野村達雄氏(33歳)でした。貧しい幼少期を経て独学でプログラミングを学び、2011年にGoogleに入社した経歴を持つ野村氏は、このアイデアを形にするため、ゲーム企画元であるポケモンの石原恒和社長(61歳)を熱心に説得しました。
石原社長は野村氏との交渉を振り返り、「自分の人生を5分で語り、なぜポケモンなのかを分かりやすく説明してくれた」と語っています。そして2014年初夏、東京・六本木ヒルズのポケモン会議室で、ハンケ氏、石原社長、そして当時の任天堂の岩田聡社長が顔を合わせました。歴史的に他社との協業をあまり好まない任天堂ですが、ポケモンの大株主でもある岩田社長は、スマートフォンの全盛期においてゲームの新しい形を模索しており、「ぜひみんなでやっていきましょう」と前向きな姿勢を見せました。こうして、エイプリルフールのジョークから始まったGoogle、任天堂、ポケモンの三社提携が、岩田社長のGOサインによって本格的に動き出したのです。
ナイアンティック独立という試練と任天堂・岩田社長の決断
2014年10月、いよいよ『ポケモンGO』の開発がスタートしました。しかし、翌年には大きな転機が訪れます。Googleの組織再編に伴い、「ナイアンティック・ラボ」はGoogleから独立することになったのです。協業の前提は「Googleが相手」だったため、独立の相談を受けた岩田社長と石原社長は「それは話が違う」と当惑しました。誰もが驚く展開に、プロジェクトの行方が危ぶまれました。
2015年6月、ハンケ氏と川島氏らは京都にある任天堂本社を訪れ、協業継続の説得を試みます。当時、岩田社長は胆管がんという病魔に冒されており、その体は蝕まれていました。しかし、ハンケ氏らの熱意ある説得に対し、岩田社長は独立したナイアンティックへの出資を承認するという重大な決断を下しました。岩田社長がハンケ氏らの何に将来性を見出し、この難しい決断を下したのか、今となっては知る由もありませんが、この決断こそが『ポケモンGO』成功の鍵を握ることになります。
翌7月、岩田社長はこの世を去りました。川島氏は、痩せ細った姿で話を聞いてくれた岩田社長の姿を深く心に刻み、「最後であろう岩田さんの決断を僕たちは重く受け止めている」と語っています。その後、2015年10月にナイアンティックはGoogle、任天堂、ポケモンから総額2,000万ドルの出資を受け、正式に独立を発表しました。Googleという巨大な傘を飛び出し、自らの力で成長への足がかりをつかんだナイアンティック。その軌跡を辿ると、シリコンバレー流の迅速で大胆な成長の形と、日本が誇るコンテンツホルダーたちの英断が見えてくるようです。この物語は、固定観念にとらわれず、新しいアイデアと情熱が世界を変えることを証明していると言えるでしょう。
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