昨今、経済界で熱い議論を巻き起こしている**「現代貨幣理論(Modern Monetary Theory:MMT)」をご存知でしょうか。これは、ジョン・メイナード・ケインズ、アバ・ラーナー、ハイマン・ミンスキーといった著名な経済学者の思想をルーツに持ち、近年、通貨の増発、すなわち財政ファイナンス**による大規模な財政出動に理論的根拠を与えるものとして、再び大きな注目を集めています。
この理論の核となる考え方は、独自の不換通貨を持ち、**自国通貨建ての公的債務(国債)**が大半を占め、変動相場制を採用する主権国家は、決して財政破綻しないというものです。なぜなら、そうした国は政府部門のすべての赤字を、中央銀行による通貨増発で手当てできるため、公的債務がいくら膨らんでも心配無用だというのです。MMT論者によれば、財政支出を停止すべきは、インフレが行き過ぎた場合のみであり、現在のところ低インフレに留まるほとんどの先進国、特に日本は、財政支出を控える必要はないと主張しています。
シティグループ特別経済顧問のウィレム・ブイター氏と、シティグループチーフエコノミストのキャサリン・マン氏による2019年5月31日付の記事では、このMMTについて厳しく問いかけています。特に、金融化(金融の相対的重要性の拡大)が著しい現代のグローバル経済という土俵では、MMTが成り立つとは限らないという点に警鐘を鳴らしているのです。
両氏も認めるMMTの正しい論点として、政府と中央銀行の勘定を一体として「国家」とみなすべきだという点は挙げられます。また、国家はベースマネー(現金と銀行の準備預金)を発行する独占権を持ち、そこから生じる通貨発行益によって国家の予算制約が緩和されるという見解も正鵠を射ています。この分析から、公的債務の持続可能性を測る真の指標は、政府部門の純債務からベースマネーを差し引いた値であり、2017年末時点で日本の対国内総生産(GDP)比は67.4%に留まるという指摘は、一考に値するでしょう。
MMTの目新しい主張と経済学的な矛盾点
しかしながら、MMTの目新しいとされる主張には、経済学的な観点から見過ごせない疑問点が多々含まれています。第一に、「政府の赤字は必ず黒字に先行する」という主張です。納税者が税金を政府の発行した通貨で支払うからという理屈ですが、これは国家が民間部門に貸し付け(証券購入)を行うだけで、赤字にならずとも経済に通貨を供給できるという事実を無視しています。
第二に、「公的債務は将来世代の負担にはならない」という主張です。これは、財政赤字を賄うために発行された国債が、民間需要を刺激し、金利を含む償還に必要な税収を十分に生み出すという極めて強引な前提に基づいています。財政赤字によるファイナンスが、民間債務による投資と同等の生産性を持つという保証はどこにもなく、その結果は財政・金融政策や個人の選択に大きく左右されると言えるでしょう。
そして第三は、「政府は1品目の名目価格を設定するだけで、あとは市場に任せ、裁量的に通貨を増発してよい」という主張です。これは、貨幣的な均衡という概念と真っ向から矛盾する考え方です。かつての金本位制を例に取れば、一度金本位制を採用すれば、中央銀行はもはや自国の不換通貨を裁量的に発行できなくなるのと同様です。
ハイパーインフレの危険性と国際経済の現実
MMTが主張する**「自国通貨建て国債のデフォルト(返済不履行)はあり得ない」という考え方は、財政ファイナンスがハイパーインフレを誘発する可能性という、デフォルト以上に多大な経済的コストが生じかねないリスクを完全に無視しています。歴史が示すように、通貨の信任が失墜すれば、そのツケは計り知れません。
また、米ドルが基軸通貨であるために、米国が自国通貨で世界のどこからでも資金を借りられる「超越的な特権」を持つという指摘はありますが、その特権が永遠に続かないという事実を見落としてはなりません。かつて、1956年のスエズ動乱で、英国がこの特権を失った苦い前例があるからです。国際経済の枠組みの中で、この特権の持続可能性を楽観視することはできないと、私は考えます。
MMTは、名目金利が実効下限制約(ELB)、すなわち事実上の下限に達している状況では、通貨増発による財政赤字の補填は、必ず流動性のわなによる均衡を導くと主張します。しかし、財政支出の結果生じた赤字をファイナンスしたからといって、不可避的に流動性のわなを招くとは限りません。実体経済における投資や消費の反応によっては、政府の支出増が民間投資を抑制するクラウディングアウト**を引き起こしたり、あるいは供給サイドを刺激したりする可能性も否定できないからです。
金融化時代の経済学と将来のリスク
加えて、MMTは、財政ファイナンスがインフレや経済成長を促す過程で、金融仲介機能、投資の金融化、そして資産価格インフレが果たす役割を軽視している点も見逃せません。通貨増発で賄われた財政支出が、真の投資に充当されるのか、それともM&A(合併・買収)や自社株買いといった投機的な活動に使われるのかによって、経済成長や経済的厚生(利益)に与える影響は大きく異なります。また、資産価格の上昇は、特定の資産を持つ者と持たざる者の間で不平等を拡大させる原因にもなり得ます。投資選択や不平等に関心を持つべきMMT論者が、金融仲介や金融商品の役割を軽視するのは、理解に苦しむ点です。
ブイター氏らの見解では、現在の低インフレと超低金利の組み合わせという特異な経済環境は、MMTの中心的な主張、すなわち「通貨増発による財政出動の拡大」が成り立つ理想的な状況であると認めています。期限付き商品券を国民に配布するヘリコプターマネー政策も、今日の日本であれば効果があるかもしれないというのです。SNS上では、この「ヘリコプターマネー」という言葉が、財政出動による家計支援の期待と、将来のインフレ懸念という両面から、特に大きな反響を呼んでいます。
しかし、重要なのは、この状況が永遠には続かないということです。米国や英国はすでに流動性のわなから脱しており、ユーロ圏、そして日本でさえ、どこかの時点で金利がELBを上回ることが予想されます。その瞬間が訪れたとき、現在積み重ねられている巨額の財政ファイナンスが引き起こすインフレは、日本経済にとって極めて深刻な問題となるでしょう。
米国のMMT論者が提案する雇用保障政策などの財源を財政ファイナンスで賄うというアイデアは、もしそれが供給サイドの刺激や所得分配の観点から本当に価値があるのなら、MMTという理論の枠組みとは関係なく、独立して実行されるべきです。最後に、財政ファイナンスの総額そのものよりも、「どのような財政選択をするか」がはるかに重要であるというブイター氏らの指摘に、私は強く賛同いたします。財政支出の規模や構成、そして租税構造の変化といった財政選択の詳細こそが、将来の経済の姿を決める鍵となるからです。流動性のわな下では、通貨増発による財政出動は景気変動抑制に望ましいかもしれませんが、わなを脱した途端に、インフレを誘発せず通貨発行益を最大化するための、細心の注意を払った政策運営が求められることになるでしょう。
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