スマートフォンが手放せない時代になり、私たちは音楽や動画を楽しみ放題の生活を送っていますが、ここにきて「音」に注目した新しいサービスやマーケティング手法が急速に広がり始めています。特に話題を集めているのが、脳が心地よさを感じる現象「ASMR」を引き起こす音を活用した「音マーケティング」です。音楽に疲れてしまった時でも、イヤホンで何かを聞いていないと「耳がヒマ」と感じる現代の若者をターゲットに、企業が新たなブランド価値を創造しようとしているのです。
この「耳のヒマ」を埋めるニーズに応えるのが、音声コンテンツのオーディオブックを手掛けるオトバンクと、新規事業支援のクオンタムが共同で立ち上げたレーベル「SOUNDS GOOD(サウンズグッド)」です。彼らは、企業が持つ独自の環境音をASMRコンテンツとして「YouTube」や「Spotify」などで無料配信しています。例えば、東京ガスはガスバーナーの音、JR東日本は大塚駅周辺の飲食店での調理音や山手線車輪のヤスリがけの音など、これまで企業が価値を認識していなかった音を、リラックスできるコンテンツとして世に送り出しています。
ASMRとは、<strong>A</strong>utonomous <strong>S</strong>ensory <strong>M</strong>eridian <strong>R</strong>esponse(自律感覚絶頂反応)の略で、本来は触覚や聴覚、視覚などの五感をきっかけとして脳が気持ち良いと感じる現象や状態を指す専門用語です。近年は特に、食べ物の咀嚼音や物が擦れ合う音など、心地よさを引き出す「音」を指す動きが広がり、動画投稿サイト「YouTube」を中心に若者から大きな反響を呼んでいます。この現象に着目し、クオンタムの安藤紘氏は、かつて音楽が記憶に残るように、<strong>聴覚のブランディング</strong>に大きな可能性があると述べています。
この新しいブランディングの形に、企業も強い関心を示しています。JR東日本の担当者は、山手線を単なる輸送手段ではなく、言語やビジュアル以外のコミュニケーションを通じて、より価値ある存在として顧客に感じてもらいたいと、レーベル参加の理由を語っています。このレーベルは2019年3月に立ち上がったばかりですが、企業独自の音をコンテンツ化し、ブランド構築に役立てるという斬新な試みは、今後の展開に大いに期待が持てるでしょう。
「パキッ」「パリ」が極上の調味料に!食品業界でのASMRマーケティングの成功事例
ASMRをいち早くマーケティングに取り入れ、目覚ましい成果を上げているのが、外食・食品業界です。その成功例の一つが、日本ケンタッキー・フライド・チキン(日本KFC)が2019年4月に期間限定で発売した「パリパリ旨塩チキン」です。同商品は、想定の1.5倍という驚異的な売れ行きを見せていますが、その立役者となったのが、商品の咀嚼音を伝えるネット動画でした。「パリパリは極上の調味料」というナレーションとともに、その音の心地よさを伝える動画は、同社のこれまでの動画に比べて完全視聴率が1.5倍に上りました。
日本KFCは、この音の訴求効果をデータでも裏付けています。杏林大学名誉教授の古賀良彦氏の監修のもと、パリパリ音を聞くことが前頭葉のほとんどの部位で脳血流量や唾液量を増やすという実証実験を行い、消費者に納得感を与えました。同社のマーケティング課長である民谷信之氏は、これまでは味の訴求が中心でしたが、顧客が「食べること以外の体験価値」を求め始めた今、音マーケティングの可能性は計り知れないと指摘しています。
また、森永製菓も2019年4月、チョコアイス「パキシエル」で、タレントの鈴木奈々さんを起用した「鈴木奈々のASMRチャレンジ動画」の配信を開始しました。パキシエルは2013年の発売当初から「食感にはまる」とネットで口コミが広がり、同社は2016年にこの「音」に着目しました。<strong>五感情報工学</strong>という人間の五感と情報処理の関連を研究する専門分野の調査の結果、食べた人にしか聞こえない「骨導音」が快感につながることが判明したのです。
さらに、翌2017年には日本音響研究所に依頼し、音響効果を深掘りした結果、パキシエルの「爽快に感じる音域の高さ」や「心地よい音の種類の多さ」が、沖縄の波のせせらぎと同じでリラックス効果があることも分かりました。同社はテレビCMを一切使わず、こうした音の効果をネットなどで訴求し続けた結果、2018年度の販売量は2013年度比で2.6倍に拡大しました。1シーズンで消えてしまいがちなアイス市場で、棚を維持し続けることに成功した冷菓マーケティング部の古谷正宏氏は、「もともとチョコの分厚さが特徴ですが、音に注目したことで売り上げが上がった」と、その効果を強調しています。
海外でも、イケアが米国でベッドやクッションの音のASMR動画を配信するなど、この波は世界に広がっています。しかし、動画マーケティングを手掛けるプルークスの皆木研二社長は、YouTubeの再生回数から見て、市場はまだ爆発的に広がりを見せていないと分析しています。今後は、多くのインフルエンサーやクリエーターが集まる音声配信のプラットフォームが整い、企業がチャンネルを持つことが、音マーケティング市場をさらに広げる鍵となるでしょう。
「耳の可処分時間」は1日5時間!音声市場の群雄割拠が音マーケティングを加速させる
現代人は、スマートフォンを常に操作しているため、指や目は塞がれがちですが、エキサイトなどの調査によると、仕事や動画視聴に耳が占有されず、<strong>「ながら聞き」</strong>ができる「可処分時間」は1日約5時間もあるとされています。目や手に比べて耳の領域は意外と空いていることから、「いつも耳で何かを聞いていたい」という新しいニーズが生まれているのです。現在は、規模600億円超の音楽配信が優勢ですが、気分を上げる音楽とは別に、笑いや情報、発見などを得るための「音楽以外の音」に対するニーズも高まっています。
このニーズを捉えているのが、オーディオブックなどのコンテンツです。さらに、一昨年以降に普及し始めたスマート(AI)スピーカーやワイヤレスイヤホンなど、「音声を聞く環境も急速に整備されている」とオトバンクの久保田社長は指摘しています。今後は、リスナーが声を配信する「ポッドキャスト」などのサービスが伸びていくでしょう。海外ではポッドキャストが成長し、Spotifyなども参入していますが、日本でもVoicy(ボイシー)や中国系の「ヒマラヤ」、エキサイトから生まれたラジオトークなどが手掛け、まさに<strong>群雄割拠</strong>の様相を呈しています。
ラジオトークでは、顔出しをせずに別人格になって話せるという点から、新たなクリエーターが誕生することに期待が寄せられています。私は、この「耳がヒマ」という感覚は、現代の<strong>情報飽和時代が生んだ新しい形の癒やしと刺激</strong>を求める本能的な欲求だと感じています。現在はまだニッチなASMRも、YouTubeのように多くの人が集まる<strong>プラットフォーム</strong>が確立されれば、一気にマスへと進化する可能性を秘めていると確信しています。今後、どのような企業が、その独自の音で消費者の心(そして脳)を魅了するのか、大変楽しみです。
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