世界中のビールメーカーが熱い視線を送る「飲酒大国」ベトナムで、今まさに大きな転換点が訪れています。2019年07月05日現在、現地ではアルコール摂取に対する規制の波が急速に広がっており、これまでの「飲みっぷりの良さ」を象徴する文化が、社会問題の解決に向けて形を変えようとしているのです。活気に満ちたハノイやホーチミンの街角で、当たり前のように見られた光景が、これからは少しずつ変化していくことになるでしょう。
2019年06月上旬、ベトナム国会はアルコール被害防止法案を可決し、夜間の酒類広告を制限することを決定しました。これにより、2020年01月01日からは、テレビやラジオにおいて毎日18時00分から21時00分までのゴールデンタイム、および子供向け番組の前後で、お酒の広告を流すことが禁止されます。これは国民の健康を守るための大きな一歩であり、SNS上でも「ついに規制が入るのか」「夜の楽しみが減ってしまう」といった驚きの声が上がっています。
ベトナムの飲酒量は、世界的に見ても突出しています。2018年に世界保健機関(WHO)が発表したデータによると、ベトナム人の年間アルコール摂取量は8.3リットルに達し、世界平均の6.4リットルを大きく上回っているのが現状です。キリンビールの2017年の調査でも、ベトナムのビール消費量は世界第9位にランクインしており、その成長率はメキシコと並んで世界トップクラスを誇ります。まさに、アジアを代表するビール市場と言えるでしょう。
この背景には、ベトナム特有の飲酒文化があります。現地では「ビアホイ」と呼ばれる、一杯数十円で楽しめる格安の生ビールを出す大衆食堂が全国に存在します。ビアホイとは、防腐剤を使わずに醸造された、その日限りの新鮮な樽出しビールのことで、庶民の喉を潤す欠かせない存在です。平日の昼間からお酒を酌み交わし、コミュニケーションを図る習慣が深く根付いており、お酒は単なる飲み物以上の社会的な役割を果たしてきました。
しかし、近年の経済成長に伴い、消費者の好みは高級志向へとシフトしています。2018年の実質国内総生産(GDP)成長率は7.1%という驚異的な数字を記録しました。GDPとは、国内で一定期間に生み出された付加価値の合計で、国の経済の勢いを示す指標です。この豊かな経済力を背景に、オランダの「ハイネケン」や日本の「サッポロ」といった海外ブランドを好む層が急増しており、洗練された高級バーが街の至る所に誕生しています。
一方で、ベトナム政府が抱く危機感は深刻です。その一つが医療費の増大です。政府は2020年までに医療保険の加入率を80%に引き上げる目標を掲げており、飲酒による健康被害が財政を圧迫することを危惧しています。国民に人気の高いグエン・ティ・キム・ティエン保健相を中心に、保健省はアルコール対策に本腰を入れています。お酒による病気を減らすことは、国を支える健やかな国民を増やすことと同義であり、避けては通れない課題なのです。
もう一つの深刻な問題が飲酒運転です。ベトナムでは車の普及が進んでいますが、それに伴い交通事故も後を絶ちません。2019年01月01日から2019年03月31日までのわずか3ヶ月間で、4030件の事故が発生し、1905人もの尊い命が失われました。政府は罰金を大幅に引き上げる検討をしており、現在は約8万4000円の罰金を、その1.7倍にあたる約14万円まで引き上げ、さらに2年間の免許剥奪という厳しい処分も視野に入れています。
現在は「モータリゼーション」の幕開けとも言える時期にあります。モータリゼーションとは、自動車が一般大衆に広く普及し、生活に欠かせないものになる社会現象のことです。2019年06月には、ベトナムの複合企業ビングループが初の国産車を発売し、自動車の普及に拍車がかかっています。1人当たりのGDPが、普及の目安とされる3000ドルに迫る中で、飲酒運転の根絶は社会の安全を守るための喫緊の課題として浮上しているのです。
私は、今回の規制はベトナムが「成熟した先進社会」へと歩みを進めるための必要な儀式であると考えています。自由にお酒を楽しむ文化は素晴らしいものですが、それが公共の安全や国民の健康を著しく損なうのであれば、ルールを整備するのは当然の帰結でしょう。SNSでは「厳しすぎる」という意見も散見されますが、将来の子供たちが安心して暮らせる社会を作るためには、今このタイミングで「正しい飲み方」を再定義することが求められています。
飲料メーカー各社も、ただ規制を嘆くのではなく、新たな戦略を模索し始めています。広告が制限される中で、いかにしてブランドの価値を伝えるか、あるいはノンアルコール飲料やソフトドリンクをどう展開していくかが鍵となるでしょう。ベトナムのアルコール市場は、量から質へ、そして享楽から責任ある消費へと、大きなパラダイムシフトの最中にあります。この変革の先に、より健康的で安全な、新しいベトナムの宴の姿が見えてくるはずです。
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