現代社会は「フェイクニュース」という言葉が飛び交い、根拠に乏しい憶測や都合の良い事実認識が、特にSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)上で大量に拡散されている状況にあります。2016年のアメリカ大統領選挙における情報戦の様子を見ても、その影響力の大きさが浮き彫りになりました。しかし、メディア史を専門とする佐藤卓己氏の著書『流言のメディア史、曖昧な情報、直視する必要性』は、こうした現象を決して目新しいものとして捉えていないのです。
佐藤氏は、新聞やラジオといった従来の「オールド・メディア」が、流言(りゅうげん)――つまり、根拠の曖昧な情報や噂――とどのように関わってきたのかを緻密に検証しています。その射程は非常に広く、1938年にアメリカで起きたオーソン・ウェルズによるラジオドラマ『宇宙戦争』をきっかけとした「火星人来襲パニック」の神話から、日本国内の歴史的な出来事にまで及びます。著者は、現代のみに焦点を当てるだけでは見えてこない、情報を取り巻く環境の根源的な問題を捉え直していると言えるでしょう。
たとえば、1923年9月1日の関東大震災発生時に、自警団などによって引き起こされた朝鮮人虐殺という悲劇があります。ここで著者がスリリングに読み解くのは、人々が積極的に流言の伝播(でんぱ)という役割を担っていたという事実です。自警団の活動に熱中した人々の中には、「地方参政権すら持っていない下層民」が多く、これは彼らの「政治参加」への欲望が発露した一面でもあると指摘されています。さらに、1954年3月1日の第五福竜丸事件をめぐる流言の分析も示唆に富んでいます。この事件では、被爆した船員らが持ち帰った「原子マグロ」をめぐって社会的な不安が広がった一方、当時の「原子力平和利用」キャンペーンの影響もあり、この不安をあたかも「風評被害」であるかのようにみなす風潮も見られたのです。第五福竜丸と同じ海域で被爆した人々への沈黙の強要や、ソ連の水爆実験による放射能雨について言及されないといった、情報への歪みも見過ごせない要素でしょう。
情報があふれるSNS時代に、私たちが取るべき「最善の行動」とは
これらの読み解きから導かれるのは、「メディア流言に私たちはどう向き合うべきか」という根源的な問いです。SNSが普及し、誰もが情報の受け手であると同時に送り手となった今日、私たちは「流言のある世界」から逃れられない状況に置かれています。しかし、著者は、メディア流言が一掃された世界が本当に望ましいのかと疑問を投げかけます。
なぜなら、公共メディアを通じて「正しい情報」のみが満ち溢れていた社会は、過去に存在していたからです。それは、ナチス・ドイツ時代の第三帝国や、かつての共産主義下のソ連といった全体主義国家であり、そこには「表現の自由」の抑圧がありました。つまり、「正しさ」が一方的に与えられる状況こそが、思考の停止を招きかねない危険性をはらんでいるのです。
私個人の意見としては、私たちは流言という曖昧な情報に直面したときに、安易な正しさを求めるのではなく、その曖昧さそのものを直視する姿勢が不可欠だと感じています。流言の存在は、権威的な情報だけでなく、それに対する異論や批判、そして人々の不安や欲望といった「声」が、社会の中に存在している証拠でもあります。この曖昧な状況に向き合い続けることが、現状を絶えず問い直し、社会をより健全に保つための営みを可能にする鍵となるのではないでしょうか。
書籍は、読者に対し「この情報は間違っているかもしれないというあいまいな状況で思考を停止せず、それに耐えて最善を尽くすことは人間にしかできない」という重みのあるメッセージを投げかけ、読後感は非常に深いものがあります。立命館大学教授の福間良明氏による書評も、この本が現代のメディア環境を考える上でいかに重要であるかを裏付けていると言えるでしょう。この一冊は、流言の氾濫する現代を生きる私たちにとって、情報を扱う上での哲学を与えてくれる必読の書となるに違いありません。(岩波新書、900円+税)
コメント