1980年の創業から間もない頃のファンケルは、まさに波乱万丈という言葉がふさわしい日々を送っていました。創業者の池森賢二氏が直面したのは、あまりにも厳しい行政指導の壁です。1983年当時、神奈川県庁の薬務課からは頻繁に呼び出しがかかり、制作したチラシに対しては「この表現はダメだ」と、執拗なまでの修正指示が繰り返されていました。
何度足を運んでも首を縦に振ってもらえず、最終的には「1文字も書くな」とまで突き放される始末です。チラシの配布すらままならない絶望的な状況の中、池森氏はエレベーターで居合わせた職員から、ある驚くべき「ヒント」を耳にします。それは、事前確認などせずに先にチラシを撒いてしまい、後から指導を受けるという、いわば「事後報告」の商慣習でした。
行政側は事前にチェックしてしまうと、万が一問題が起きた際に自分たちの責任を問われることを恐れていたのです。これに気づいた池森氏は、あえて先にチラシを配布し、後から「誤って10万枚配布してしまいました」という始末書を提出する手法をとりました。実際には100万枚を配布していたというから驚きですが、こうした型破りな戦略が初期の成長を支えたのです。
SNSでは「昔の行政指導の闇が深すぎる」「今のコンプライアンス重視の時代では考えられないけれど、創業者の執念を感じる」といった、当時のグレーな時代背景に対する驚きの声が多く上がっています。こうした行政との駆け引きだけでなく、池森氏の前にはさらに恐ろしい「反社会的な勢力」という壁も立ちはだかっていました。
命がけの交渉!包丁と拷問器具に屈しなかった不屈の精神
ある日、池森氏のもとに「妻の肌が荒れた」という、いわれのない言いがかりが舞い込みました。相手はいわゆるブラックジャーナリストで、金銭を要求するために雑誌への誹謗中傷を武器に脅しをかけてきたのです。顧問弁護士の神山岩男先生からの「一度でも払えば、一生せびられる」という助言を胸に、池森氏はたった一人で交渉の席へと向かいました。
「診断書を見せてほしい」と正論を貫く池森氏に対し、相手は激昂してすごみますが、毅然とした態度を崩さない池森氏を前に、結局何も書くことはできませんでした。また、滋賀県の事務所へ呼び出された際には、机の上に包丁が置かれ、指を詰めるよう迫られるという映画のような恐怖の場面にも遭遇しています。
ここでも神山先生の「相手も警察沙汰は避けたいはずだ」という言葉を信じ、恐怖を必死にこらえて耐え抜きました。あまりの強情さに、相手も最後にはあきれて解放してくれたそうです。事務所内に置かれた電気椅子のような拷問道具を目にしたときは、震え上がるほどの恐怖を感じたといいますが、こうした命がけの試練を乗り越えてこそ、今のファンケルがあるのでしょう。
1980年の創業から3年、全国に撒いたチラシの効果でファンケルは着実に軌道に乗り始めていました。しかし、池森氏には新たな懸念が芽生えます。それは、横浜にある本社への注文電話にかかる「遠距離通話料」の問題です。札幌や福岡といった遠方の顧客が、高い料金を負担してまで注文し続けてくれるのか、という不安が拭えませんでした。
そんな折、1983年9月に導入を決めたのが「チェスコム」の転送電話システムです。これは顧客が地元の市内番号にかけるだけで、自動的に横浜のセンターへ繋がる仕組みで、通話料を会社側が負担する画期的な試みでした。こうした顧客目線の徹底と、どんな圧力にも屈しない経営姿勢こそが、巨大ブランドへと成長する原動力になったのだと確信します。
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