2019年5月31日、ネットイヤーグループの石黒不二代社長が語られた「熱狂マーケティング」は、現代のビジネスにおいて非常に重要な示唆を与えてくれる手法です。これは、特定の商品やサービスに対して深く熱狂しているお客様に積極的に働きかけ、その方々のエネルギーをお借りしてマーケティングを推進していくという考え方で、従来のマーケティングの枠を超えた取り組みと言えるでしょう。
お客様は通常、初めて試す「トライアル顧客」から、繰り返し購入してくださる「継続顧客」、さらに愛着の深い「ロイヤル顧客」へと関係を深めていきます。しかし、石黒社長が注目するのは、そのさらに上の階層に存在する「熱狂顧客」の存在です。そんなお客様が本当に存在するのかと疑問に感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、実際にこの層を開拓し、業績や利益率を著しく向上させているブランドは確かに存在しているのです。日本国内では、クラフトビールとして有名なヤッホーブルーイングの「よなよなエール」や、高品質なキャンプ用品を展開する「スノーピーク」が、その代表的な成功例として知られています。
私がこの「熱狂マーケティング」を強く支持する理由は、主に二つの時代の変化にあると考えられます。まず一つ目は、日本の人口動態の変化です。1970年代から80年代にかけては人口が増加していたため、新しいお客様をどれだけ獲得できるかが、そのまま企業の成果に結びついていました。しかし、1990年代に入ると人口の増加は横ばいとなり、マーケティングの焦点は、今いるお客様に長く購入し続けてもらう「顧客育成」へとシフトしたのです。そして今、人口減少が深刻化する中で、既存のお客様からの売上を維持するだけでは、企業として業績を支えることが難しくなってきています。だからこそ、お客様ご自身が、ご友人や同僚、ご家族といった周囲の方々へ積極的に商品やサービスを推奨してくださる流れを作ることが、極めて重要になってきているわけです。
そして二つ目の決定的な理由は、ソーシャルメディア、すなわちSNS(Social Networking Service)の急速な普及と台頭です。かつてのブランドイメージは、企業が自ら技術力やデザイン性、機能性といった要素で他社との差別化を図り、作り上げるものでした。しかし、石黒社長が指摘されるように、このような手法は非常に脆いと言わざるを得ません。なぜなら、技術もデザインも機能も、他社が容易に模倣できてしまうからです。
このような背景から、マーケティングの対象は「モノ(製品そのもの)」から「コト(製品を使うことで得られる体験)」へと大きく移行しています。この体験を語る主体は、もはやブランドを提供する企業側ではなく、実際に利用しているお客様自身に移っているのです。そして、この「コト」の体験をソーシャルメディアを通じて発信し、周囲に伝えてくれるのが、まさに「熱狂顧客」たちに他なりません。
SNSでの投稿が語る「熱狂」の文脈
この変化を象徴する興味深い例が、インスタグラムでのハッシュタグ検索の事例です。例えば、「ベンツ」や「BMW」といった高級車を検索すると、投稿の多くは車そのものが主役となっており、所有者というよりも車体そのものを主体とした写真が多く見受けられます。一方で、「ワーゲン(フォルクスワーゲン)」を検索してみると、なんと車にすら乗っていない、つまり車とは直接関係のない状況の写真を投稿している方さえいるというのです。これは、ワーゲンの車を「移動手段」としてだけでなく、「ライフスタイル」や「ある特定の文化」を形成する“体験”そのものとして投稿していることを示唆しています。
仕様には多少の違いがあれど、同じ「車」というカテゴリーに属する商品であるにも関わらず、ソーシャルメディア上ではこれほど大きな差が生まれているという事実は、ブランドがお客様にどのように受け止められているかが、ハッシュタグに極めて顕著に表れることを証明しています。
インスタグラムをはじめとするSNSへの投稿は、自身の体験を他者に知らせる「推奨」行為と捉えることができます。このお客様による推奨は、企業にとって非常に重要なマーケティングのヒントとなるのです。なぜなら、推奨の背景には必ず「なぜなら、○○だから」という、熱狂に至る「文脈」が付随しているからです。この文脈は、企業が一方的に語る、技術やデザイン、機能といった従来の視点から生まれたものではありません。お客様が自ら語る「体験」であり、それは企業側がこれまで知ることができなかった、まさに新しい視点、新しい価値基準なのです。熱狂マーケティングの肝は、この熱狂顧客が「なぜ」熱狂しているのかという理由を企業側が深く掘り下げて解き明かし、その独自の文脈を他の見込み客へと伝えていく点にあります。
このようなマーケティング環境の劇的な変化が起こっているにも関わらず、依然として多くのブランドが、新規顧客の獲得や既存顧客の継続購入といった従来型の施策に、マーケティング予算のほとんどを費やしているのが現状です。私は、この状況を是正すべきだと強く提言したいと考えます。予算の一部で構いませんので、ぜひ「熱狂顧客」の行動や感情、そして彼らが発信する文脈を深く分析するために投じるべきでしょう。この分析こそが、人口減少時代において企業が持続的に成長し、他社との模倣されにくい真の差別化を実現するための、極めて有効な一手に違いありません。
石黒社長は1994年にスタンフォード大学経営大学院を修了後、シリコンバレーでコンサルティング会社を起業され、2000年からネットイヤーグループの現職に就かれています。そのキャリアから培われたグローバルかつ先進的な視点に基づくこの「熱狂マーケティング」の概念は、これからの時代を生き抜く経営者やマーケターにとって、必須の戦略となるでしょう。
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