キャンバスから溢れ出さんばかりの色彩と、柔らかな光を纏った生命の輝き。2019年に没後100年を迎えた印象派の巨匠、オーギュスト・ルノワールの芸術は、海を越えた日本の画家たちにも計り知れない衝撃を与えました。その代表格として知られるのが、洋画家の中村彝(なかむらつね)です。
1920年09月01日、彼は東京・谷中で開催された展覧会を訪れ、ルノワールの絵画と運命的な出会いを果たします。その夜の興奮を、彼は支援者への手紙に「一晩中悪夢に似た制作的幻想で胸がふさがり、一睡もできなかった」と綴りました。まさに、魂が共鳴した瞬間だったのでしょう。
魂の共作が生んだ傑作「エロシェンコ氏の像」
ルノワールとの出会いからわずか8日後、中村彝は代表作となる「エロシェンコ氏の像」の制作に取り掛かりました。モデルは盲目の詩人、ワシーリイ・エロシェンコ。金髪で彫りの深い外国人の姿は、ルノワールの筆致に刺激を受けたばかりの彼にとって、最高の素材となりました。
当時、中村彝は「結核」という命を削る病に冒されていました。結核とは、結核菌によって主に肺が侵される病気で、当時は有効な治療薬が少なく、多くの若き才能を奪った不治の病として恐れられていました。彼は命を燃やすような凄まじい集中力で筆を動かし、完成後には寝込んでしまうほど全霊を傾けたのです。
SNSでも「中村彝の描く瞳には、単なる写実を超えた熱量がある」といった声が多く聞かれます。輪郭を周囲に溶け込ませ、内側から光を放つような表現手法には、明らかにルノワールからの影響が息づいています。病魔に襲われながらも、彼は巨匠の背中を追い、キャンバスに生命力を叩きつけました。
神話とオマージュが交錯する「泉のほとり」
1924年01月08日に彼が認めた手紙からは、もう一つの興味深いエピソードが浮かび上がります。長年ルノワールの模写だと思われていた「泉のほとり」が、実は中村彝自身の構想によるオリジナル作品だったという事実です。これは、彼がいかに巨匠のスタイルを自分の血肉にしていたかを物語っています。
この作品では、滑らかな肌を持つ裸婦と、力強いタッチで描かれた背景のコントラストが印象的です。専門的な視点で見ると、当時の絵画界には「デッサン派」と「色彩派」という二つの大きな流れがありました。前者は形を重視し、後者は色彩の調和を追求するスタイルです。ルノワールは後者の代表格であり、中村彝もまたその色彩の魔法に深く心酔していました。
もし彼が結核に倒れず、フランスに渡って本物のルノワールに会えていたら、日本の洋画史はまた違う景色を見せていたかもしれません。しかし、遠い日本から憧れ続けたからこそ、誰にも真似できない「中村彝のルノワール」が誕生したのではないでしょうか。
編集者としての私見ですが、中村彝がルノワールに見出したのは、単なる技法ではなく「生きる喜び」そのものだったと感じます。絶望的な病状の中で、彼が必要としたのは、ルノワールが描く豊潤で普遍的な人間の美しさだったのでしょう。100年後の今、私たちが彼の絵に惹かれるのも、そこに不変の生命力が宿っているからに他なりません。
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