ロシアの最高権力者として君臨し続けるウラジーミル・プーチン大統領の統治は、2019年12月05日現在で既に20年という節目を迎えました。かつては北方領土問題の解決に並々ならぬ意欲を燃やしていた彼ですが、その姿勢は時の流れと共に驚くほど変貌を遂げています。モスクワ国際関係大学のドミトリー・ストレリツォフ教授は、両国の交渉の歴史を振り返りつつ、現在の状況を極めてシビアに分析していらっしゃいます。
時計の針を戻すと、2000年から2001年にかけての日露関係は、今では信じられないほど「実り多い」蜜月期にありました。当時の森喜朗首相とプーチン氏の間に築かれた個人的な信頼関係が、大きな推進力となったのです。その象徴と言えるのが、2001年03月に発表された「イルクーツク声明」でした。この文書が画期的だったのは、平和条約締結後に歯舞群島と色丹島を日本へ引き渡すと定めた「1956年の日ソ共同宣言」を交渉の起点に据えた点にあります。
当時のプーチン氏は、まだ政治家としての若さと理想を抱いており、領土問題を解決して歴史に名を刻もうという強い意志を持っていたと推察されます。外務省内のリベラル派の声に耳を傾け、「短期間で関係改善ができる」という一種の希望的観測を抱いていたのかもしれません。しかし、2001年春に小泉純一郎政権が誕生し、日本側の姿勢が硬化すると、プーチン氏は「裏切られた」という深い失望感を抱くことになりました。
「引き分け」の期待とシンガポールでの衝撃
その後、北方領土問題は長い停滞期に入りましたが、2012年にプーチン氏が大統領に返り咲いたことで再び転機が訪れます。彼は領土交渉の決着について「引き分け(ハジメ)」という柔道用語を使い、解決への期待を再び抱かせました。ウクライナ情勢による冷え込みはあったものの、2018年11月頃までは両国の関係は比較的好調に推移していたと言えるでしょう。
事態が急変したのは、2018年11月のシンガポールでの首脳会談でした。安倍晋三首相が日ソ共同宣言をベースとした交渉加速を提案した際、ロシア側には大きな衝撃が走ったようです。皮肉なことに、ロシア側は日本が本当に「2島」という条件で妥協してくるとは想定していませんでした。この提案を機に、ロシアは「宣言は否定しないが、実際に2島を引き渡すのは非現実的」という、極めて強固なガードを固めるに至ったのです。
SNS上では、この冷徹な現状分析に対し「かつてのチャンスを逃した代償は大きい」「ロシアの国内世論を考えれば、もはや返還は絶望的なのではないか」といった悲観的な声が目立っています。かつての理想主義者だったプーチン氏は、今や支持率の低下に直面し、領土割譲というリスクを冒せない保守的な指導者へと変貌してしまいました。
私は、外交において「タイミング」がいかに残酷であるかを痛感せずにはいられません。かつて存在した解決への窓は、今や固く閉ざされつつあります。ストレリツォフ教授が予測するように、安倍政権以降の日露関係がさらに厳しい冬の時代を迎える可能性は否定できません。言葉の裏にあるロシア側の「本音」を冷静に見極め、私たちは幻想を捨てた新たな戦略を練る必要があるのではないでしょうか。
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