2019年09月07日、日本中を悲しみと憤りが包んでいます。鹿児島県出水市で、わずか4歳の生命が失われた大塚璃愛来ちゃんの事件は、行政の連携不足が浮き彫りになる衝撃的な展開を迎えました。児童相談所の対応が後手に回っていた事実に、ネット上では「なぜ守れなかったのか」「行政の怠慢ではないか」といった厳しい批判の声が渦巻いています。守れるはずだった命を前に、私たちの社会が抱える闇が改めて浮き彫りとなりました。
事件をめぐる大きな転換点となったのは、鹿児島県中央児童相談所による説明の訂正です。これまで児相は、県警が璃愛来ちゃんを3回目に保護した際、次に何かあれば「一時保護」を行う方針を伝えていたとしていました。しかし2019年09月06日、実際にはその方針を伝えたのは4回目の保護があった翌日の2019年04月03日だったと白状したのです。この時期のズレは、子供の安全を確保するための判断がいかに遅れていたかを物語っています。
ここで重要な「一時保護」という言葉は、子供の生命の安全を最優先に考え、親から切り離して児童相談所などの施設で預かる強力な権限を指します。このカードを切るタイミングが数日遅れるだけで、取り返しのつかない悲劇を招くリスクが飛躍的に高まるのです。佐多士郎所長は「会見の緊張による誤った記憶」と釈明しましたが、人の命を預かる組織として、記録に基づかない曖昧な記憶で公の場に臨んだ姿勢には、言葉にできないほどの危うさを感じずにはいられません。
さらに問題となっているのは、出水市側と児相側の主張の食い違いです。市側は「要保護児童対策地域協議会」、通称「要対協」の開催を打診したと主張していますが、児相側は聞き取り調査の結果、そのような事実はなかったと全面的に否定しています。この要対協とは、虐待のリスクがある子供を救うために、警察や学校、医療機関などが情報を共有し、チームで対応策を練るための非常に重要な会議体です。この連携の要となる場をめぐって意見が対立している現状は、組織の機能不全を露呈しています。
救える命を救うために――私たちは何を教訓とすべきか
筆者の個人的な見解としては、今回の事件は単なる「記憶違い」で片付けられるべきではありません。行政機関同士が責任を押し付け合っている間に、救いを求める小さな手はすり抜けていってしまいました。組織のメンツを守ることよりも、目の前の子供の安全を第一に考える「不作為」を許さない文化が、今の児相には決定的に欠けているのではないでしょうか。根本的なシステムの見直しがなされない限り、同様の悲劇は繰り返されるという強い危機感を抱きます。
この事態を重く見た厚生労働相は、全国の児童相談所に対し、育児放棄(ネグレクト)の疑いがあるケースについての緊急点検を実施する方針を固めました。SNSでは「点検だけで終わらせず、法改正や増員などの具体的な改善を急いでほしい」という切実な声が相次いでいます。璃愛来ちゃんが最後に見ていた景色が絶望でなかったと信じたいところですが、残された大人たちに課せられた責任は、想像を絶するほどに重いものです。二度とこのような痛ましいニュースが流れない社会を切に願います。
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