南海電鉄の重鎮・山中諄氏の原点!雪国で育ったガキ大将が駆け抜けた少年時代

1943年2月1日、雪が舞う凍てつくような寒さの中で、後の南海電気鉄道特別顧問となる山中諄氏は、三重県北西部の島ケ原村(現在の伊賀市)に生を受けました。山中氏の少年時代を包んでいたのは、木津川が流れ、雄大な景観を誇る自然豊かな故郷の風景です。学校への道のりには木製の橋があり、時には自然の猛威によって橋が流されることもありました。それでも渡し船を使って登校するなど、日々の暮らしそのものが冒険のような、逞しい環境だったのです。

島ケ原小学校の校章には、「関西建築界の父」と称される武田五一氏が手掛けた、モダンで緻密なデザインが施されていました。この校章は、交通の要衝である村の歴史的背景を見事に象徴しています。同じ仲間と9年間を共にする濃密な環境の中で、山中氏は同級生の間で一目置かれる「ガキ大将」として成長していきました。授業中は静かに学びつつも、放課後になればかばんを投げ捨て、木津川でウナギを捕まえたり、手製の車で急坂を駆け下りたりと、野性味あふれる遊びに没頭する毎日だったそうです。

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チャンバラに熱中した少年が抱いた、繊細な横顔

剣豪・荒木又右衛門ゆかりの「鍵屋の辻」が近いという地理的要因もあり、山中氏は隣の区の子供たちとのチャンバラごっこに熱中していました。「顔は狙わない」といった暗黙のルールを重んじるその姿勢に、後の仕事人としての冷静さの片鱗が見えるようです。SNS上では、このエピソードに対し「今の子供たちにはない熱量を感じる」「ルールを守る遊びの精神が素敵だ」といった声が多く寄せられており、古き良き時代のコミュニティのあり方に懐かしさと共感を覚える人が後を絶ちません。

しかし、そんな活発な姿とは裏腹に、幼少期の山中氏の体は決して丈夫とは言えませんでした。腸の大きな病気を患い、死の淵をさまよったこともあったのです。小学校の卒業式には自力で歩けず、祖父に背負われて証書を受け取ったというエピソードからは、故郷への深い愛着と家族の絆が強く伝わってきます。中学生になると肺に影が見つかり、治療のために京都への転校を余儀なくされましたが、山中氏の心は常に故郷の島ケ原と共にあり、今も住民票を移していないという一途さには胸を打たれます。

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