【現地ルポ】宮沢賢治が問いかける「本当の賢さ」とは?岩手・花巻市に残る『虔十公園林』の碑が教えてくれること

「全くたれがかしこく たれが賢くないかは わかりません」――。ふと立ち止まって考えさせられる、そんな深い言葉が宮沢賢治の童話には溢れています。2019年06月01日、初夏の風が心地よい岩手県花巻市を訪れました。この地には、賢治作品の中でも特に心を打つ短編『虔十公園林(けんじゅうこうえんりん)』ゆかりの石碑が静かに佇んでいるのです。

『虔十公園林』の主人公・虔十は、周囲から少し「足りない」と見なされ、いつも子供たちにからかわれている少年でした。彼は雨の日の青い藪や、空を飛ぶ鷹を見ては手を叩いて笑い、その純粋すぎる行動が嘲笑の対象となっていたのです。しかし、彼の心には誰よりも無垢で美しい風景が広がっていたのでしょう。

ある日、虔十は母親に杉の苗を700本ねだり、家の所有する原っぱに一本一本丁寧に植え始めます。粘土質の土壌ゆえに成長は遅くとも、彼は毎日それを嬉しそうに眺めていました。ところが悲劇は唐突に訪れます。まだ少年だった虔十は、チフスという重い感染症にかかり、この世を去ってしまうのです。

時が流れ、鉄道が通って村が近代化されても、虔十が遺した杉林だけは静かに、そして力強くそこに在り続けました。かつて彼を馬鹿にしていた子供たちも、大人になり、あるいは次の世代の子供たちが、その木陰を憩いの場として愛するようになります。「あゝ、全くたれがかしこく たれが賢くないかは わかりません」。物語は、そんな痛烈かつ慈愛に満ちた一文で結ばれるのです。

スポンサーリンク

小学校の校庭に残る、賢治の魂

賢治の故郷である花巻市の市立桜台小学校。その正門前、立派な赤松の下に『虔十公園林』の石碑が設置されています。これは1983年、当時の卒業生たちが記念に建てたもので、父兄の方々が2年もの歳月をかけて積み立てを行い実現したそうです。碑文の文字は、賢治の実弟である宮澤清六さんが「兄の字に似ている」として選んだ卒業生の筆によるものだといいます。

取材に応じてくださった当時のPTA会長・橋本孝夫さんは、子供たちの心に深く刻まれる言葉として、この作品の一節を選んだそうです。桜台小学校の佐藤恵校長も、「校歌にも賢治の精神が受け継がれている」と語り、この碑を大切に守り続けていく決意をにじませていました。校内を歩けば児童たちが自然と校長先生に寄り添ってくる、そんな温かい光景が、賢治が理想とした世界と重なって見えました。

宮沢賢治記念館の学芸員であり、清六さんの孫にあたる宮澤明裕さんは、虔十の生き方こそが賢治の精神そのものだと指摘します。有名な詩『雨ニモマケズ』に登場する「デクノボー」という言葉。これは単に役に立たない人を指すのではなく、見返りを求めず、愚直に他者のために尽くす尊い精神性を表しています。虔十の生き様は、まさにこの精神を体現していると言えるでしょう。

効率化の時代にこそ響くメッセージ

物語には後日談のようなエピソードがあります。かつてこの近くの小学校に通い、後にアメリカの大学教授となった人物が、母校を訪れた際に変わらぬ杉林を見て涙し、その永久保存を提案したというのです。一見して無駄に見える行為が、長い時間を経て人々の魂の安らぎとなる。これこそが、虔十が遺した本当の「功績」だったのではないでしょうか。

現代社会は、2019年の今もなお「効率」や「成果」ばかりを急かす傾向にあります。SNS上でも、「すぐに役立つこと」がもてはやされがちです。しかし、私はこの取材を通じて、即効性のある賢さだけが正解ではないと強く感じました。誰に笑われようとも、自分が美しいと信じたものを植え続ける。そんな虔十の不器用な生き方こそが、疲弊した現代人の心にオアシスをもたらしてくれるはずです。

インターネット上やSNSでは、この物語や石碑について「読むたびに涙が止まらない」「花巻に行ったら絶対に見に行きたい」「本当の成功とは何か考えさせられる」といった感動の声が数多く上がっています。せわしない日常を過ごす私たちだからこそ、ふと立ち止まり、花巻の風に吹かれながら「本当の賢さ」について想いを馳せてみるのも良いのではないでしょうか。

コメント

タイトルとURLをコピーしました