2019年09月28日の午前、豪華客船タイタニック号の生誕地として知られる北アイルランドのベルファストは、異様な緊張感に包まれていました。市街地のパブや喫茶店に集まった人々が視線を注ぐのは、ラグビーワールドカップ(W杯)で快進撃を続けるはずのアイルランド代表の姿です。しかし、優勝候補の一角と目される彼らが、開催国である日本代表を相手に予想外の苦戦を強いられる展開に、街中には焦燥感が漂っていました。
ついにノーサイドの笛が鳴り響き、日本が歴史的な大金星を挙げると、ファンたちは悔しさを滲ませながら静かに席を立ちました。ラジオで戦況を見守っていた58歳のジョー・ジェーディーさんは、負傷者の多さに触れつつ「本来の調子ではなかった」と苦笑いを浮かべます。SNS上でも「日本の粘り強さは驚異的だが、我々の代表にはもっと上を目指してほしい」といった、愛ゆえの厳しい叱咤激励や再戦を望む声が溢れ返っています。
歴史の荒波を乗り越えた「全島一丸」の精神
ここで注目すべきは、北アイルランドが「イギリス領」であるにもかかわらず、ラグビーではアイルランド共和国と合同の「南北統一チーム」として戦っている点でしょう。アイルランドは1937年の独立を経て、1949年には英連邦からも完全に離脱しましたが、ラグビー協会だけは19世紀の創設以来、国境に分断されることなく一つの組織を貫いてきました。これこそが、スポーツが政治を超越した稀有な例と言えます。
かつてこの地では、アイルランド統一を願うカトリック系住民と、英国統治を支持するプロテスタント系住民との間で、3500人以上の犠牲者を出す凄惨な紛争が続いていました。1998年の和平合意に至るまでの血塗られた歴史の中でも、ラグビーは「ノーサイド」の精神を体現し続けてきたのです。試合前に流れるのは特定の国歌ではなく、全島の住民が肩を寄せ合って歌えるよう作られた「アイルランズ・コール」という楽曲です。
現在のアイルランド代表を牽引する主将、ローリー・ベスト選手も北アイルランドの出身であり、「島全体の選手や人々と共に戦えるラグビーは素晴らしい」と誇り高く語っています。一方で、サッカーにおいては南北が別々の代表チームを持っており、応援のスタイルも宗教やルーツによって複雑に分かれています。だからこそ、宗派の垣根を超えて全島が熱狂できるラグビーの存在は、この地における平和の象徴なのです。
ブレグジットという名の不穏な足音
しかし、この美しい調和に今、イギリスのEU離脱(ブレグジット)という暗い影が忍び寄っています。特に懸念されているのが、北アイルランドとアイルランド共和国の間に、検問所などの物理的な境界が復活する「ハード・ボーダー」の問題です。もし再び目に見える「壁」が出現すれば、人々の民族意識を刺激し、かつての暴動や紛争が再燃する火種になりかねないという不安が現地で急速に高まっています。
「政治とスポーツは別物であるべきだ」という言葉は、国際社会では理想的な通念として語られます。しかし、複雑に入り組んだ歴史を持つ北アイルランドにおいて、両者を完全に切り離すことは容易ではありません。せっかくラグビーが築き上げてきた融和の架け橋が、政治的な判断によって揺るがされる現状には、憤りを感じざるを得ません。スポーツが純粋に勝利を分かち合う場であり続けることを、切に願うばかりです。
2019年10月01日現在、悲願の初優勝を目指して突き進む代表チームの背中には、全アイルランドの期待と、そして離脱問題がもたらす一抹の憂鬱が同居しています。政治の動向が、フィールドを駆ける選手たちや、彼らを信じて声援を送る市民たちの純粋な情熱を削ぐようなことがあってはなりません。ブレグジットという荒波が、アイルランド・ラグビーが守り抜いてきた「絆」を壊さないことを祈るばかりです。
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