1964年4月、一人の青年が大きな夢と少しの不安を胸に、上野駅から夜行列車に乗り込みました。後にTDKの会長を務めることとなる澤部肇氏の社会人生活は、創業者・斎藤憲三氏の故郷である秋田県での研修から幕を開けたのです。車窓から眺めた日本海の美しさは、東京育ちの青年に「ふるさと」という概念を初めて刻み込みました。
SNSでは「偉大な経営者にもこんなに人間味あふれる新人時代があったのか」と、その意外なエピソードに親近感を覚える声が上がっています。エリート集団の中で始まった座学の合間、偶然にも創業者から「しっかり前を向いて頑張れ」と声をかけられ、圧倒されて逃げ出してしまったという若々しい失敗談は、多くの読者の心を掴んでいます。
もてなしの心と「学生気分」への洗礼
当初は口数の少なかった秋田の人々ですが、一度打ち解ければその温かさは格別でした。寮の食事が口に合わないと漏らした澤部氏に対し、現地の女性社員は「い・え・さ・こ・い(家に来なさい)」と温かく誘い、ついには手作りのお弁当まで持たせてくれたそうです。こうした土地の深い慈愛に触れながら、澤部氏は少しずつ社会人としての階段を登っていきました。
しかし、当時の彼はまだ「学生気分」が抜けきらない一面もありました。大学時代のノリで「東京の夜をあなたと」という派手なポスターを駅に貼り、工場の講堂で300人規模のダンスパーティーを勝手に開催。さらには支給された作業着を勝手に細身に改造し、「会社を私物化するな」と総務から厳しく叱責される一幕もありました。
未曾有の災害「新潟地震」で見せた秋田の底力
転機となったのは、1964年6月16日に発生した新潟地震でした。突如として工場のコンクリートに亀裂が走り、凄まじい揺れが現場を襲いました。恐怖に立ちすくむ人々を目の当たりにし、それまでの浮ついた気持ちは一気に吹き飛んだといいます。ここからの復旧劇は、まさにTDKの伝説として今も語り継がれています。
男性社員が総出で復旧にあたった結果、なんとその月の売上は当初の計画を上回るという驚異的な記録を打ち立てました。この「逆境への強さ」こそが秋田の精神であり、その後のドル・ショック(1971年の米大統領による金・ドル交換停止に伴う経済混乱)やオイルショックという荒波を乗り越える同社の原動力となったのでしょう。
1964年4月から9月までの半年間、鮮やかな緑に包まれた秋田で過ごした日々は、澤部氏にとって生涯の宝物となりました。50年以上の歳月が流れた今、彼にとって秋田は単なる研修地ではなく、訪れるたびに「帰ってきた」と実感できる第二の故郷なのです。
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