日本とアメリカが現在の安全保障条約、いわゆる「日米安保(にちべいあんぽ)」を結んでから、2020年01月19日でちょうど60年という記念すべき節目を迎えました。この同盟関係に支えられ、戦後の我が国が目覚ましい経済発展と平和を享受してきた事実は、歴史的に見ても高く評価されるべきでしょう。しかし現在、世界中で自国第一主義の波が激しく押し寄せており、かつてないほど両国の絆の強さが試されているのも事実です。
国家にとって、国民の命や暮らしを災害や侵略から守る「安全保障」は最も根本的な使命であり、防衛力の強化を進めることは無視できません。一方で、世界唯一の戦争被爆国である日本が、自ら核兵器を保有するという選択肢は論外だと言えます。自分の国だけで完全に防衛する「自主防衛」にも自ずと限界があるため、信頼できるパートナーと手を携えることこそが、現代の国際社会において何よりも心強い選択肢となるはずです。
かつての近代日本を振り返ると、イギリスやアメリカとの良好な協力関係を背景に日露戦争での勝利を収め、国際的な大国へと発展を遂げました。しかしその後、ドイツやイタリアとの間で結んだ「三国同盟」へと方針転換した結果、あの悲惨な大戦での敗北を招いた苦い教訓があります。1951年09月08日に締結された旧安保条約は、当時の連合国軍による占領体制をそのまま引き継いだような、日本にとって一方的な内容でした。
その後、1960年01月19日に岸信介(きしのぶすけ)首相が署名した現在の新条約により、日米がお互いにどのような役割を担うのかが初めて明確になりました。これは、日本が自らの意思で「アメリカとの同盟を外交の基軸にする」という未来を選択した瞬間だったと言えます。当時、非武装中立を唱えていた野党第一党の社会党は、現実的な安全保障のビジョンを提示できず、結果として有権者の支持を失い衰退の一途をたどりました。
だからといって、これまでの自民党政権の歩みを無条件に称賛すれば良いというわけではなく、安易な全肯定は禁物です。現在、国民の約9割が自衛隊の活動を肯定的に受け止めていますが、安倍晋三首相が「集団的自衛権(しゅうだんてきじえいけん)」、つまり密接な関係にある他国が攻撃された際に共に戦う権利の行使を限定的に認めたときには、大きな議論が巻き起こりました。
このとき「日本の防衛活動の範囲がどこまでも広がってしまうのではないか」という懸念は、連立与党である公明党の内部からも噴出しています。「自衛隊が地球の裏側の戦地まで派遣されるのではないか」という国民のリアルな恐怖心は、かつて昭和の時代に「アメリカの引き起こす戦争に日本が巻き込まれてしまうのではないか」と多くの人々が反対運動に身を投じた不安の根底と、本質的に同じものです。
SNS上でもこのテーマには多くの意見が飛び交っており、「日米の連携強化は今の東アジア情勢には不可欠だ」という現実的な声が目立ちます。その反面で「アメリカの都合で自衛隊員が危険にさらされるのは絶対に避けてほしい」といった切実なつぶやきも多く見られ、平和を望む世論の複雑さが浮き彫りになっています。自民党内の一部からは「同盟の力で中国による強硬な海洋進出を力強く押し返すのだ」という勇ましい発言も聞こえてきます。
しかし、そのような強硬姿勢が本当に多くの国民が望む総意なのかは、今一度冷静に立ち止まって見極める必要があるでしょう。当のアメリカ軍にしても、日本と中国との間で発生する予期せぬ突発的な武力衝突に、好んで巻き込まれたいと考えているわけではありません。ドナルド・トランプ米大統領は、これまで幾度となく在日米軍の撤退の可能性をちらつかせ、日本側に揺さぶりをかけてきました。
日本国内では「これは在日米軍の駐留経費、いわゆる『思いやり予算』の負担増を勝ち取るための単なる脅し(ブラフ)に過ぎない」と楽観視する見方が根強くあります。ですが、自国の経済や雇用を最優先し「なぜ他国の安全のためにアメリカ人の血と税金を流さなければならないのか」と不満を募らせる米国市民が増加しているのは、見紛うことなき現実なのです。
この「アメリカ第一主義」の潮流は臨時のものではなく、仮に将来トランプ政権が終わったとしても、大きく変わることはないでしょう。だからこそ私は、これからの日米関係は、どちらか一方が依存する形ではなく、双方が対等にメリットを享受できる「大人の同盟」へと脱皮していくべきだと考えます。過度に甘えることもなく、かといって距離を置きすぎることもない、還暦を迎えたこの同盟を中身のない形骸化したものにしてはなりません。
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