2007年2月、当時の日本銀行は追加利上げに踏み切り、政策金利を0.5%に引き上げました。この決定の裏側では、執行部の一員である岩田一政副総裁が反対票を投じるという異例の事態が起きていたのです。本来、日銀の執行部は一致団結して政策を遂行する責任がありますが、岩田氏は自身の信念を貫き、少数意見を表明されました。
当時の日本国内では不動産価格の上昇が目立っており、政策委員たちの脳裏には、かつてのバブル経済の悪夢がかすめていたようです。しかし福井俊彦総裁(当時)を含む多数派は、この上昇を冷静に分析していました。将来の収益から価値を逆算する「収益還元価格」の範囲内であり、バブルへ直結する危険な兆候ではないと判断していたのです。
ところが、2007年の幕開けとともに世界経済の歯車が狂い始めます。アメリカで住宅ローン会社が次々と破綻する、いわゆる「サブプライムローン問題」の足音が聞こえてきました。低所得者向けの審査が甘い住宅ローンが焦げ付くこの問題は、当初はアメリカ国内の局所的な騒動に過ぎないと考えられていましたが、事態は想像を絶する展開を迎えます。
2007年7月、金融政策の舵取りを行う「コックピット」から見える景色に、不穏な雲が立ち込めました。当時の実体経済はまだ堅調で、生産や所得のサイクルに乱れは見られなかったものの、市場の深部では異変が進行していたのです。8月には、フランスの金融大手によるファンド凍結「パリバ・ショック」が発生し、危機は一気に世界を飲み込みました。
SNS上では、当時の混乱を振り返り「あの時から世界の景色が変わった」「日銀が必死にドルの流動性を確保しようとしていたのを覚えている」といった声が上がっています。まさに世界中の中央銀行が電話会議を重ね、ドルの資金枯渇を防ぐために奔走した緊迫の数日間でした。この混乱により、日銀が描いていた利上げシナリオは完全に崩れ去ったのです。
未完成に終わった「金利1%」への挑戦
福井氏は、退任までに金利を1%まで引き上げたかったという本音を漏らしています。1%という数字は、市場において金利が本来持つ「景気調節機能」が有効に働く最低ラインだと考えていたからです。もし1%まで戻せていれば、後任者も景気後退時に金利を下げるという「調整の余地」を持てたはずであり、0.5%での退任は、氏にとって無念の「未完成」でした。
また、2006年に世間を騒がせた「村上ファンド」への出資問題についても、重い口を開いています。総裁就任後は一切の助言を断っていたものの、出資そのものを引き揚げなかった点は、今なお重大な反省事項として胸に刻まれているようです。激動の時代に舵取りを担ったリーダーの述懐は、金融政策の難しさと重責を私たちに物語っています。
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