「てるてる坊主」といえば、誰もが一度は作ったことがある、明日の晴天を願う小さなおまじない人形でしょう。白い布や紙で作られた簡素な姿を思い浮かべますが、その歴史を紐解くと、私たちが想像するよりもずっと豊かな文化と、人々の純粋な願いが込められていることが分かります。この記事では、2019年6月8日時点の記事の内容と、そこに記された日本玩具博物館学芸員・尾崎織女氏の考察をもとに、愛らしい「てるてる坊主」が持つ奥深い物語を探っていきましょう。
てるてる坊主の歴史的な姿を知る手がかりの一つに、江戸時代の浮世絵があります。春に名古屋市博物館で開催された特別展で注目を集めた、歌川国芳の作品「山海愛度図会―天気にしたい」には、娘がてるてる坊主に一杯のお酒を捧げる様子が描かれていました。この絵に登場する人形は、現代の簡素なものとは異なり、まじないの言葉である「てり、てり」と書き入れた手縫いの着物を着ていたそうです。江戸時代後期の文献には、「照々法師(てりてりほうし)」や「てり雛(びな)」「てるてる」など、さまざまな呼び名が見られ、願いが叶った際には目を描き入れ、なんと神酒(みき)、つまり神様に捧げるお酒を飲ませた記録も残っているようです。国芳の描いた照々法師を再現しようと和紙を縫い貼りしてみた尾崎氏によると、手間をかけるほどに思いがこもり、人形への愛着が増すのは、昔の人も同じだったのではないでしょうか。
私たち日本人には、災厄の肩代わりを願う人形文化が古くから伝わっていますが、晴天だけを祈願する人形がどのような経緯で生まれたのかは興味深い点です。一つの有力な説としては、中国に伝わる「掃晴娘(サオチンニャン)」の影響が挙げられます。これは、長雨による大洪水の危機を救うために命をかけて雨を止ませたという伝説の女性をかたどった切り紙細工のことで、中世から黄河や揚子江流域で晴天を祈るために門前に飾られていました。「掃天婆(サオティエンポー)」と呼ばれる人形を吊るす地域もあり、これらはみな、雲を掃き払うほうきを持った姿で表現されるのが特徴です。
一方で、日本独自の妖怪との関連を指摘する説もあります。18世紀後半の文献に、夏の晴天の時に山中に現れるという常陸の国の妖怪「日和坊(ひよりぼう)」が描かれているのですが、その姿が僧侶のようで、江戸の照々法師にどこか通じるものがあるのだそうです。実際、てるてる坊主を「日和坊主」と呼ぶ地域もあったと伝えられており、この妖怪との関係もロマンを掻き立てる要素の一つと言えるでしょう。災厄から身を守るというより、日和(ひより、つまり良い天気)を連れてくる存在として親しまれていたのかもしれません。
童謡の力:全国に広がる「てるてる坊主」という名前
江戸時代には多様な呼び名があったてるてる坊主ですが、それが現代の「てるてる坊主」という名称に統一されていく過程には、近代のメディアの影響が大きく関わっています。決定的だったのは、大正時代に発表された童謡「てるてる坊主」(作詞:浅原鏡村、作曲:中山晋平)の存在です。さらに、昭和初期の小学国語読本にこの人形が登場したことが、その名を全国へ広める決定打となりました。国語読本には、遠足の前日に太郎さんがてるてる坊主を作り、「テルテルバウズ、テルバウズ、アシタ天キニシテオクレ」と歌ったと綴られています。これにより、全国の子どもたちが太郎さんと一緒にこの童謡を愛唱し、親しみ深い名前として定着していったのでしょう。
SNSでも、遠足や運動会の前日に子どもが作ったてるてる坊主の写真や、大人になってからも「頼みの綱」として吊るすという投稿が見られ、その文化的な影響力の強さが伺えます。「てるてる坊主」は単なる飾りではなく、「純粋に晴れを願う気持ち」を表現するアイコンとして、私たちの生活に深く根付いているのですね。
しかし、戦後になって生活様式が変化するにつれて、手縫いの着物を着た手間のかかる形から、現在のような簡素な姿へと変わっていきました。現代では天気予報の精度が格段に向上し、もはやてるてる坊主に天気への確かな期待をかけることは少なくなったかもしれません。しかし、明日の晴天を切に願う子どもの、そして大人の純粋な心の表れとして、この歴史ある小さなおまじない人形を、これからも大切に次世代へと伝えていくべきだと私は考えます。それは、科学の進歩では満たされない、心の安らぎや、ささやかな希望を形にする文化だからです。
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