行動経済学の魔法「ナッジ理論」の落とし穴とは?NTTデータ経営研究所の専門家が語る、真に人を動かすための思考法

「ちょっとした工夫で人の行動をデザインできる」として注目を集めるナッジ理論ですが、その手軽さゆえの危うさに警鐘を鳴らす声が上がっています。2019年09月02日、NTTデータ経営研究所のアソシエイトパートナーである茨木拓也氏は、流行に流される現状に一石を投じました。SNS上でも「心理学を安易に使うのは怖い」「効果の根拠が重要だ」といった、倫理観や実効性を問う意見が数多く飛び交っています。私たちは、この魔法のような技術を正しく扱う準備ができているのでしょうか。

そもそもナッジとは、肘で軽く突くような「さりげない後押し」を意味する行動経済学の用語です。強制することなく、選択肢の提示方法を変えるだけで、人々をより良い意思決定へと導く手法を指します。例えば、階段に楽しい装飾を施してエスカレーターの利用を減らすような試みが代表的でしょう。しかし茨木氏は、アイデアを競う場での一時的な成功に満足するのではなく、多額の税金や組織の命運が掛かった施策として導入する際には、より慎重な姿勢が求められると強調しています。

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エリート学生でも苦戦する「デフォルト効果」の罠

ナッジの中でも特によく知られているのが、あらかじめ特定の選択肢を初期設定にしておく「デフォルト効果」という手法です。人間には、変化を嫌い現在の状態を維持しようとする「現状維持バイアス」という心理的特性があります。これを活用すれば、ユーザーが何もしなければ望ましい選択がなされるよう設計できますが、実はこの操作はプロでも一筋縄ではいきません。心理的なメカニズムを深く理解していなければ、意図した結果を引き出すことは極めて困難なのです。

2017年に発表された米スタンフォード大学の実験では、ビジネススクールのエリート学生たちでさえ、デフォルト戦略を正しく運用するのに苦労したという驚きの結果が出ています。CEOになりきって従業員の職務選択を誘導するよう指示された際、適切な初期設定を提示できたのはわずか半数に過ぎませんでした。この結果は、人間の心理をコントロールしようとする試みが、どれほど繊細で高度な専門性を必要とするかを如実に物語っているといえるでしょう。

私が思うに、ナッジは決して「ボタン一つで人を操るツール」ではありません。むしろ、相手の心に対する深い敬意と、緻密な論理構成が不可欠な「対話」の一種ではないでしょうか。単に「初期設定を変えればいい」という安易な発想で挑めば、対象となる人々の信頼を損なうリスクすら孕んでいます。ナッジを検討する責任者は、まず自分自身のスキルと、その施策がもたらす影響の大きさを天秤にかけるべきなのです。

エビデンスなき施策は無駄?真に有益な行動を見極める眼

さらに重要なのは、ナッジによって誘導する「目的地」そのものの妥当性です。例えばがん検診は健康寿命を延ばすエビデンス(科学的根拠)が確立されていますが、一般的な健康診断については、2012年のデンマークの研究によってその医学的な有効性に疑問が投げかけられています。どれだけ巧みに受診を促したとしても、その行動自体に価値がなければ、費やされる時間やコストはすべて無駄になってしまいます。何が本当に有益なのかを見極めることが先決です。

また、施策に伴う「副作用」への配慮も欠かせません。軽症者が夜間に救急外来を訪れる「コンビニ受診」を減らすために自己負担額を引き上げる手法は、確かに医療費抑制には効果的でしょう。しかし、それによって本当に治療が必要な人が受診を控えてしまい、健康を損なうようなことがあれば本末転倒です。幸い、現在の研究では高い自己負担が直ちに悪影響を及ぼす事例は少ないとされていますが、常に最悪のシナリオを想定する慎重さが求められます。

現在、欧米では膨大な研究データを機械学習で体系化する動きが加速していますが、日本はこの分野で少し出遅れているのが現状です。しかし、経営戦略から公共の健康政策まで、ナッジが活躍できるフィールドは無限に広がっています。茨木氏が期待するように、今後は産官学が連携し、単なるブームで終わらせない「真に役立つ科学」としての社会実装が進むことを願ってやみません。まずは私たち一人一人が、無意識の選択に潜むメカニズムを知ることから始めてみませんか。

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