秋の気配が深まる2019年11月17日、私たちは文壇の巨星・丸谷才一さんを偲び、鎌倉の地を訪れました。逝去から7年の歳月が流れても、丘の上に佇む「玩亭墓」を囲む空気は、まるでピクニックのような穏やかさに満ちています。丸谷さんの俳号を刻んだ墓石に花を供えれば、在りし日の快活な笑顔が鮮やかに蘇るようです。
墓参のあと、一行は賑やかに中華料理店を訪れました。宴が佳境に入った頃、ご長男の亮さんが差し出したのは、代表作『たった一人の反乱』の極めて貴重な限定本です。一冊きりの至宝を巡るあみだ籤に、座の熱気は最高潮に達しました。SNSでも「丸谷さんの粋な計らいのよう」と話題を呼びそうな、ドラマチックで幸福な時間が流れたのです。
五感を刺激する、失われゆく「工芸品としての本」
当選した編集者の手に渡ったその限定本は、1972年当時の出版界の黄金期を象徴する、息を呑むような美しさでした。原弘氏が手掛けた装幀は、朱色の函に臙脂色の革とマーブル紙を配し、金箔押しが輝く芸術品です。特筆すべきは「フランス装」という、読者が自らペーパーナイフでページを切り開きながら読み進める、贅沢な造本スタイルでしょう。
かつての活字印刷が生み出す、紙面の微かな凹凸。それは指先を通じて、言葉の重みを直接心へ届けてくれるかのようです。しかし、1995年のバブル崩壊を境に出版不況が進むと、こうした手間暇をかけた「触れる装幀」は姿を消し始めました。現代において、函入りやクロス装(布張り)の本は、もはや絶滅危惧種といえるのかもしれません。
ミナ ペルホネンの刺繍が呼び起こす、ものづくりの原点
こうした効率化の波に抗い、手触りの豊かさを守り続けているのが、皆川明氏率いる「ミナ ペルホネン」です。1995年に僅か六畳一間で産声を上げたこのブランドは、当初の苦境を乗り越え、今や熱狂的な支持を集めています。皆川氏が描く自然豊かな図案は、高度な刺繍技術によって布の上に命を吹き込まれ、着る人の心を優しく揺さぶります。
アパレル業界でも原価率が重視される昨今、手間のかかる刺繍やレースを多用する姿勢は異例と言えるでしょう。しかし、その「ナイーブアート」のような純粋さこそが、私たちが忘れかけていた温もりを思い出させてくれます。東京都現代美術館での展覧会は、本も服も、愛着を持って「触れる」ことの大切さを再認識する絶好の機会です。
知を使い倒す覚悟と、マリリン・モンローの微笑み
装幀の美を語る一方で、丸谷さん自身の読書スタイルは驚くほど合理的で、潔いものでした。書庫に並ぶ本は、函やカバーを脱ぎ去り、本文には無数の書き込みやクリップが施された「戦士の道具」そのものです。愛でるよりも、知識を血肉化することに心血を注ぐその姿からは、文学に対する真摯な情熱と豪胆さが伝わってきます。
書庫の片隅には、マリリン・モンローが難解な『ユリシーズ』を読み耽る写真が飾られていました。美しい装丁の本も、使い古されたボロボロの本も、読み手と深く繋がる瞬間には、等しく至高の輝きを放ちます。効率化される現代だからこそ、私たちは再び、手で触れ、心で感じる「ものづくりの魂」に目を向けるべきではないでしょうか。
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