日本は本当に平等?「総中流社会」という幻想の正体と現代に続く格差の実態

2019年12月10日現在、私たちの社会を語る上で欠かせない「総中流」という言葉。かつての日本は国民の誰もが標準的な暮らしを送れる、理想的な平等社会だったと信じられてきました。しかし、東北学院大学の神林博史教授が指摘する視点は、そのイメージに一石を投じるものです。

1973年に実施された政府の調査において、自らの生活水準を「中」だと答えた人は、なんと全体の9割を超えました。この驚異的な数字が、日本全体が中流階級であるという強力な認識を生んだのです。ですが、多くの人が自分を「普通」だと感じていれば、即座にその社会が平等であると言い切れるのでしょうか。

SNS上では、この当時の「9割」という数字に対し、「今では考えられない」「かつての黄金時代」と羨む声がある一方で、「単に周囲と同じでありたいという日本人の同調圧力ではないか」といった鋭い分析も散見されます。実は、この「中」という回答の内側には、見過ごせない大きな差が潜んでいたのです。

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「中」の中に隠された格差の正体

「生活程度が中」と回答した人々を細かく見ていくと、「中の上」「中の中」「中の下」という3つの層に分かれます。専門的なデータ分析が示す実態は、これらが決して同じような暮らしを営む均一な集団ではなかったという事実です。一括りにされてきた「中」という言葉の裏には、明らかな境界線が存在しました。

例えば「中の上」に位置する家庭は、高い世帯収入を背景に日々の生活に強い満足感を得ていました。対照的に「中の下」の人々は、収入も低く生活に対する不満を抱えていたことが明らかになっています。同じ「中」というカテゴリーに属していても、その生活実感や経済力には無視できない開きがあったわけです。

ここで言う社会経済的地位とは、単なる年収だけでなく、職業や教育歴などを総合して判断される社会的な立ち位置を指します。当時の日本社会は、外側から見れば「総中流」という一枚岩の平等な姿に見えていたかもしれませんが、その実情は決して同質的なものではありませんでした。

私個人としては、この「総中流」という概念自体が、格差という不都合な真実を覆い隠すための心地よいオブラートのような役割を果たしていたのではないかと感じます。人々が自分を「中流」だと思い込むことで、社会に存在する歪みに気づくのが遅れてしまった可能性は否定できないでしょう。

2019年12月10日の視点で見れば、当時の日本が「総」中流だったと言い切るには、論理に無理があると言わざるを得ません。私たちは過去のイメージを鵜呑みにせず、データに基づいた冷静な視点で社会の構造を見つめ直す必要があります。本当の平等とは何かを問い直す時期が、まさに今来ているのではないでしょうか。

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