現在、関西の街は訪日外国人観光客(インバウンド)の増加によって、これまでにない活気に満ちあふれています。この熱気あふれる関西の玄関口である関西国際空港と、大阪の中心地であるミナミを結んでいるのが、南海電気鉄道の空港特急「ラピート」です。独特で力強いデザインから「鉄人」の愛称で親しまれるこの列車は、連日多くの旅行客を乗せて快走しています。
この華やかな成功の裏には、激動の四半世紀を支え続けた一人の熱い鉄道マンの存在がありました。それが、南海電気鉄道の社長や会長を歴任し、現在は特別顧問を務める山中諄氏です。山中氏は、1994年の関空開港当時に鉄道事業本部の運輸部長として最前線で指揮を執り、まさに空港とともに歩んできた人物といえるでしょう。
日本最古の歴史を誇る私鉄のプライド
南海電気鉄道は、日本の大手私鉄の中で最も長い歴史を誇る伝統ある企業です。その前身である阪堺鉄道が開業したのは、伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任した年と同じ1885年のことでした。そんな名門企業にとっても、大阪府南部の泉州沖に新しい海上国際空港を建設するという国家プロジェクトは、未来をかけた巨大な挑戦だったのです。
沿線地域となる南海電気鉄道は、1986年に空港へ乗り入れる連絡鉄道の免許を申請しました。その後、無事に事業許可が下りたことを受けて、1991年3月25日に待望の建設工事がスタートします。その大プロジェクトの幕開け直後となる同年4月2日、山中氏は鉄道事業の運行や安全管理を統括するトップである運輸部長に就任しました。
しかし、当時の山中氏には大きな不安がありました。実は入社以来、ずっとバス事業の担当であり、赤字続きだったバス部門から黒字の鉄道部門へと異動してきたばかりだったのです。いわば「畑違い」の場所への着任であり、最初は鉄道の専門知識が全くない状態からのスタートという、異例の人事でした。
現場の「試し行動」を乗り越えた熱き絆
知識不足を補うため、山中氏は現場を知ることから始めます。本物の電車の運転席の隣に立ち、運行の様子を肌で学ぶ日々を送りました。鉄道の世界では、信号の状況を声に出して確認する「指差歓呼(しさかんこ)」という安全行動が徹底されていますが、あるとき運転士がわざと間違った信号を口にし、山中氏の反応を試すという出来事もありました。
そんな現場の壁を打ち破ったのは、山中氏の飾らない情熱でした。乗務員たちの休憩室に自ら飛び込み、これまでの古い労使慣行を見直そうと、本音でぶつかり合いました。最初は困惑し、激しい押し問答を繰り返していた現場の社員たちも、次第に山中氏の真剣な姿勢に心を動かされ、労働組合の幹部からも信頼を寄せられるようになっていきます。
現場との絆を深めて3年が経ち、いよいよ1994年9月4日の開港のときが迫ります。陸地と空港を結ぶ3.75キロメートルの連絡橋は、鉄道と道路が一緒になった橋としては当時世界一の長さを誇る壮大なものでした。しかし、山中氏にはもう一つの大きな試練である、ライバル会社との共同運行という難題が待ち受けていました。
ライバルとの共闘と「ラピート」の誕生
関西国際空港への鉄道アクセスは、南海電気鉄道とJR西日本の2社が分担しますが、海を渡る鉄道橋は1本の線路を共有しなければなりません。難波までの約42キロメートルを走る南海に対し、JRは京都までの100キロメートル以上を運行するという、全く異なるスケジュールを一つにまとめる作業は困難を極めました。
この緊迫したダイヤ調整を救ったのが、後にJR西日本の社長となる相手方の担当者、山崎正夫氏でした。お互いに歩み寄り、見事な連携を見せたことで、無事に開港時の運行スケジュールが完成したのです。同時期に進められた特急の愛称公募には3万2000通もの応募があり、ドイツ語で「速い」を意味する「ラピート」が選ばれました。
ネット上では「ラピートのレトロフューチャーな顔つきが格好良すぎる」「関空に行くときは絶対にこれに乗る」といった声が今も多く寄せられており、当時の柔軟なアイデアが時代を超えて愛されていることが分かります。畑違いのリーダーが情熱で現場をまとめ、ライバルと協力して生み出したこの列車は、これからも関西の空の旅を支え続けるでしょう。
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