私、「発酵仮面」こと発酵学者・文筆家の小泉武夫は、去る2019年6月上旬、紀州なれ鮓の歴史的な本場である和歌山県を訪れ、その伝統の味を求めて食べ歩いてきました。そこで体験した感激と感動を、ぜひ皆さまにもお伝えしたいと思っております。私たちが普段「すし」として親しんでいる、飯に酢を加えて魚介と共に握ったり押したりして作る「早ずし(鮨・寿司)」とは一線を画すのが、この「熟れずし(なれ鮓)」です。熟れ鮓は、魚を塩漬けにした後、その腹に飯を詰めるか、魚と飯を交互に重ねて漬け込み、自然な発酵を促して完成させる独特の保存食なのです。
かつては鮓を作り、販売する「鮓屋」が各地に存在しましたが、今やその数は非常に少なくなっています。しかし、中には昔ながらの基本製法をしっかりと守り続け、「これぞ紀州熟れ鮓!」と自信を持って言える、まさに**「食の日本遺産」**と称すべき逸品を提供する店が残されていました。そのひとつが、御坊市湯川町にある「紀州なれずし八ツ房(やつふさ)」さんです。
紀州なれ鮓の基本製法は、まさに時間と手間をかける発酵の芸術です。まず、生きている新鮮なサバの腹を開けて塩を詰め、小判型の魚桶に漬け込み、およそ1カ月間をかけてしっかりと塩漬けにします。その後、サバを洗い上げてから、冷ました飯を再び腹に詰め、青竹の葉で丁寧に包み込みます。これを鮓桶(すしおけ)に漬け直し、重い石(圧石)を載せてさらに約2カ月間放置するのです。この長い熟成期間に、魚と飯が一体となり、五味(ごみ)と呼ばれる甘味・酸味・塩味・苦味・うま味が調和し、深く発酵が進みます。また、別の伝統的な製法として、秋に獲れたサバを約1週間塩水に漬けた後、冷ました飯を腹に詰め、葭(よし)の葉で隙間なく巻いて竹の皮で縛り、鮓桶に重ねて重しを載せ、筵(むしろ)で囲って1カ月以上かけて発酵させる方法もあります。これらの製法における最大の特徴は、酢を一切使わず、すべてを乳酸菌による発酵のみで完成させる点にあります。この乳酸菌こそが、あの独特の風味を生み出す源なのです。
紀州なれずし八ツ房さんでいただいたサバ鮓は、まさに秀逸の一言でした。丁寧に包まれた竹の皮をゆっくりと開くと、厚みのあるしっかりとしたサバの身が、やや淡い飴色に変色した飯をしっかりと抱いています。サバの身の表面には、白銀色の素肌の上に青黒い筋模様がくっきりと浮かび上がり、その美しさにも目を奪われます。これを一口大に切り分けて口に運ぶと、瞬時になれ鮓特有の強い発酵臭が鼻孔を抜けていきました。その匂いは、強烈な香りを放つチーズに酷似しており、サバの魚の匂いがほんのりと混ざった**乳酪臭(にゅうらくしゅう)**そのものだと言えるでしょう。
ムシャムシャと噛みしめると、サバの身は歯に一度応えた後、ズルリ、トロリと溶け出すような食感に変わります。そこからサバ特有の濃厚なうま味と、脂身が持つペナペナとしたコクがジュルジュルと湧き出してくるのです。これらを包み込むのが、発酵によって生まれた飯の爽やかな酸味と、深く奥ゆかしい耽美(たんび)な甘味です。これらの複雑な要素が絶妙に絡み合い、口の中はまさに味覚の極楽でした。その美味しさに、特急「くろしお号」のようにあっという間にサバ棒の半分ほどが胃袋へと収まってしまったほどです。この伝統の紀州なれ鮓を、ただ味わうだけではもったいないと感じ、急いで地酒を熱燗にしてもらい、最高の肴として堪能しました。私自身、発酵食を愛する者として、この紀州なれ鮓の深い味わいは、日本が世界に誇るべき食文化だと確信しています。
このような伝統的な発酵食品は、今日の健康志向の高まりとともに、SNS上でも再び注目を集めています。「匂いは強烈だけど病みつきになる!」「昔ながらの製法を守るお店は貴重」「チーズやワインみたいに熟成の深みがある」といった、その独特な風味や歴史的価値を再評価する声が上がっています。特に若い世代には、この**「乳酸菌が紡ぎ出す深み」という専門的な魅力を、分かりやすく伝えていく必要があると感じています。ぜひ一度、この和歌山が誇る「紀州なれ鮓」**の、独特な匂いと絶妙な酸味が織りなす究極の味を体験してみてはいかがでしょうか。
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