2019年08月08日、ある事故をきっかけにドライブレコーダーを導入したことが、私に「監視」という概念を深く再考させる契機となりました。自らの身を守るために設置したはずのレンズが、実は社会全体を覆う巨大な網の目の一部であると気づいた時、背筋が凍るような感覚を覚えたのです。こうした日常の何気ない選択が、現代社会の構造を浮き彫りにしています。
映画研究者の北村匡平氏も注目するデイヴィッド・ライアンの著書『監視文化の誕生』を紐解くと、私たちの生きる世界がいかに変容したかが鮮明に理解できるでしょう。かつての監視といえば、権力者が密かに市民を覗き見る「パノプティコン(一望監視施設)」のような形態が一般的でした。しかし、現在進行形で起きている事態は、それとは全く異なる性質を持っているのです。
自ら進んで「見られる」ことを選ぶ?参加型管理社会の驚くべき実態
現代における監視の最大の特徴は、私たちが自ら進んでデータを差し出しているという点にあります。SNSで日々の出来事をシェアしたり、関心のあるワードを検索したりする行為は、一見すると自由な自己表現に思えるかもしれません。ですが、これらの行動はすべてデジタルデータとして蓄積され、私たちの嗜好や行動パターンを予測するための材料として活用されているのです。
このように、市民が主体的に管理システムに組み込まれていく状況を「参加型管理社会」と呼びます。専門的な言葉を使えば、これは単なる「抑圧」ではなく、利便性や娯楽と引き換えにプライバシーを供出する「合意の上での監視」と言えるでしょう。ネット上では「便利さと引き換えに自由を売っている気がする」といった、不安混じりの反響が数多く散見されます。
私は、この「自発性」こそが最も恐ろしいポイントだと考えています。強制された監視には抵抗の余地がありますが、自ら望んで行っている場合には、自分が監視されているという自覚すら希薄になってしまうからです。スマートフォンのアプリが提示する「あなたへのおすすめ」に心躍らせる瞬間、私たちは知らず知らずのうちに、管理される側の心地よさに飼い慣らされているのではないでしょうか。
2019年08月08日現在の視点で見れば、ドライブレコーダーの普及は安全への意識向上として歓迎されています。しかし、その映像がSNSで拡散され、見知らぬ誰かを糾弾する道具となっている現状を無視することはできません。私たちは被害者にも加害者にも、そして監視者にも被監視者にもなり得る、極めて不安定で透明な時代を生きていると言えるでしょう。
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