作家の飯嶋和一氏が綴る、巨樹を巡る心の旅路がSNSでも静かな感動を呼んでいます。読者からは「木々の生命力に圧倒された」「歴史の重みを感じて涙が出た」といった声が寄せられました。旅の始まりは島根県の隠岐諸島、大満寺山の山中です。小雨に煙る幻想的な空気の中、そこには「乳房(ちち)杉」と呼ばれる推定樹齢800年を超える巨樹が、静謐な祈りのように佇んでいました。何本もの杉が絡み合ったその姿は、まるで森の意志が結晶化したかのような、言葉を失うほどの荘厳さに満ちています。
乳房杉の最大の特徴は、幹から垂れ下がる巨大な「気根(きこん)」にあります。気根とは、地上にある茎や幹から空中へと伸び出す根のことで、栄養や水分を吸収するだけでなく、巨体を支える役割も果たします。この異形とも言える造形は、何世紀もの時を生き抜いてきた生命の執念を感じさせるでしょう。参拝者の影もなく、鳥の声さえ聞こえない静寂の中で老大樹と向き合う時間は、都会の喧騒を忘れさせてくれます。自然が作り出した芸術を前にすると、私たちの悩みがいかに小さなものか教えられるようです。
隠岐の旅を締めくくったのは、明治の文豪・小泉八雲が愛した風景でした。八尾川のほとりにある「愛の橋」は、地元の方々の温かな思いが詰まった場所です。案内人の祖父が、通学に苦労する子供たちのために私費を投じて架けたというエピソードは、この島に流れる慈愛の精神を象徴しています。小雨の中で薄日が差し、イカ釣りボートの白い船体が輝く光景は、巨樹の霊気とともに飯嶋氏の心に深く刻まれました。他者を思いやる心は、時代を超えて地域を支える礎となっているに違いありません。
東京の真ん中に息づく戦火の記憶と再生の物語
舞台は一転して、東京の麻布十番へと移ります。都会のビル群の合間に、東京都内で最大とされる「麻布山善福寺」の大イチョウが立っています。樹齢750年を超え、親鸞聖人がお手植えしたという伝説が残るこの巨木は、まさに東京の守護神と言える存在です。1914年に来日した樹木学者のアーネスト・ウィルソンが撮影した写真と比較すると、かつての枝の一部を失いながらも、その幹はさらに太く成長を続けています。歴史の荒波を耐え忍び、今なお緑を蓄える姿には圧倒的な威厳が漂っているでしょう。
この大イチョウには、決して忘れてはならない深い傷跡が刻まれています。74年前の空襲によって被災し、根元近くが今もなお黒々と炭化しているのです。生々しい焼け焦げた跡は、当時の惨禍を無言で伝えています。それでも木は枯れることなく、自らの体に歴史を刻みながら生き続けてきました。SNSでは「現代の私たちが平和を考えるための生きた証人だ」という反響も見られます。巨樹の前に立つと、人の一生の短さを痛感すると同時に、限られた時間の中で最善を尽くすことの大切さを教えられる気がいたします。
東洋の思想家・諸橋轍次氏は、植物がすくすくと育つ姿に「仁」や「慈」といった人の道の理想を見出しました。相手を育み、慈しむ心こそが、混迷する現代において最も必要な知恵なのかもしれません。秋になれば、善福寺のイチョウは黄金色に染まり、小さな鳥が舞うように葉を散らすことでしょう。その光景を見上げる子供たちは、きっと木が発する無言のメッセージを受け取るはずです。時代が移ろっても、変わらぬ場所で命を繋ぐ巨樹たちは、私たちの心を穏やかに整えてくれる大切な存在ですね。
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