「夢の原子炉」はなぜ終われないのか?もんじゅ廃炉の裏で繰り広げられた政府内の「極秘攻防」と核燃料サイクルの正体

2018年12月21日の朝、静寂に包まれた首相官邸の一室で、日本のエネルギー政策の未来を左右する重大な宣言がなされました。当時の菅義偉官房長官は、原子力関係閣僚会議の席上で「核燃料サイクルを推進し、高速炉の研究開発を継続する」と力強く語ったのです。これは、トラブル続きで廃炉が決まった高速増殖炉「もんじゅ」の後継として、21世紀後半の本格利用を目指す「戦略ロードマップ」の正式決定を意味していました。

しかし、この決定に至るまでの道のりは、決して平坦なものではありませんでした。実はその直前まで、政府内では激しい火花が散っていたのです。2018年12月上旬、外務省の会議室では「本当に高速炉開発は必要なのか」と問い詰める外務省幹部に対し、経済産業省が「今さら方針転換はできない」と真っ向から対立していました。国家の根幹を成すエネルギー政策を巡り、省庁間のプライドと論理がぶつかり合う異例の事態となっていたのです。

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「夢の技術」高速炉が抱える理想と現実のギャップ

ここで「高速炉」という言葉について少し解説しましょう。これは、発電しながら燃料となるウランを増殖させることができる「次世代型原子炉」を指します。通常の原発よりも速いスピードの「高速中性子」を利用して核分裂を起こすため、資源の乏しい日本にとっては、エネルギー自給率を劇的に向上させる「夢の技術」として1961年に国策に据えられました。まるで魔法のように燃料が増える仕組みは、かつての日本にとって希望の光だったのです。

ところが、その象徴であった「もんじゅ」は、1985年の建設開始から多難な歴史を歩むことになります。1995年12月8日には、冷却材として使用していた液体ナトリウムが漏洩する重大事故が発生しました。ナトリウムは空気に触れると激しく燃える性質があり、その扱いの難しさが露呈したのです。その後も相次ぐトラブルに見舞われ、2016年12月にはついに政府も「廃炉」という苦渋の決断を下すに至りました。

こうした背景がある中で、当時の河野太郎外相は「世界的にウランは余っているのではないか」と鋭い疑問を投げかけました。多額の国費を投じ続ける意義を問う外務省に対し、経産省と文科省は「過去の合意」を盾に防戦一方となります。最終的に外務省が折れる形で決着しましたが、そこには「開発の旗を降ろしたくても降ろせない」という、日本の原子力政策が抱える深い闇とジレンマが隠されていたように感じます。

青森県との「約束」が縛る、止まれないサイクル政策

政府が頑なに高速炉開発を維持しようとする最大の理由は、青森県との極めてデリケートな関係にあります。日本の「核燃料サイクル」は、使い終わった燃料を青森県の施設で再処理し、再び燃料として使う循環型モデルを目指しています。しかし、このサイクルを完結させるためには、再処理で取り出したプルトニウムを消費する「出口」としての高速炉が不可欠なのです。もし高速炉を諦めれば、再処理事業そのものの存在意義が問われかねません。

青森県は、再処理工場が稼働するまでの一時的な保管場所として、全国から使用済み核燃料を受け入れてきました。国と県の間には「サイクル政策をやめるなら、燃料はすべて県外へ持ち出す」という厳格な約束が存在します。文科省幹部が「青森が怒れば原子力政策全体が崩壊する」と危惧するように、政府にとって高速炉の継続は、地域の信頼と政策の継続性を維持するための「生命線」となっているのが現状でしょう。

SNS上では「いつまで夢を追い続けるのか」という厳しい声がある一方で、「資源のない国として技術の芽を摘んではいけない」という意見も散見されます。世耕弘成経産相(当時)は一貫した取り組みの重要性を強調しましたが、理想の実現は依然として霧の中にあります。編集者としては、過去の失敗を真摯に総括し、単なる「面子」ではない、国民が真に納得できる透明性の高い議論こそが今求められていると感じてやみません。

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