明治時代、日本中を震撼させた「コレラ」という病を覚えているでしょうか。かつて患者が発生した家の門口には、周囲への警戒を促すために黄色い紙が貼られていたといいます。文豪・岡本綺堂が記した「黄いろい紙」という怪異譚では、その張り札が刻一刻と自分の元へ近づいてくる様子が、おぞましいサスペンスとして描かれました。
現代の感覚で見れば、個人のプライバシーや人権への配慮が足りない対策だと感じるかもしれません。しかし、幕末から明治にかけての流行は想像を絶する規模でした。特に1879年や1886年の大流行では、死者が10万人を超えるという未曾有の事態に陥ったのです。「虎列刺」という恐ろしい当て字も、当時の人々の恐怖心をいっそう煽ったに違いありません。
そんな歴史的な恐怖の記憶が、私たちの遺伝子に刻まれているのでしょうか。昨今、家畜の間で流行している「豚コレラ」という言葉を聞いて、言い知れぬ不安を抱く方が少なくありません。SNS上でも「人間にうつるのではないか」「豚肉を食べるのが怖い」といった、根拠のない不安の声が散見されるのは非常に残念なことです。
こうした状況を重く見た農林水産省は、人には決して感染しないという事実を強調し続けてきました。しかし、根深い風評被害を根本から断ち切るために、呼称を「CSF(Classical Swine Fever)」へと変更する決断を下しました。これは直訳すると「古典的な豚の熱病」という意味で、人間のコレラとは全く無関係な病気であることを示しています。
CSF(豚熱)の猛威と、日本の農業を守るための決死の覚悟
そもそも、なぜ日本でこの病気が「コレラ」と呼ばれたのでしょうか。実はかつて米国で用いられていた呼称が日本にだけ定着してしまったという、皮肉な経緯があるようです。現在、日本の畜産農家は極めて厳しい局面に立たされています。2019年11月13日現在、国内で26年ぶりに発生が確認されてから約1年が経過し、被害は拡大の一途をたどっています。
政府はついに、家畜のワクチン接種という大きな舵を切りました。これは国際的な「清浄国」というステータスから除外されるリスクを伴う、まさに背水の陣の決断です。私は、この名称変更が単なる言葉の置き換えに留まらず、消費者が正しい知識を持つきっかけになるべきだと強く感じます。無知が生む差別や風評は、時にウイルスよりも残酷です。
さらに警戒すべきは、より致死率が高い「アフリカ豚コレラ(ASF)」の存在です。隣国の韓国まで迫っているこの脅威に対し、私たちは21世紀の「黄色い紙」を貼られるような事態を何としても避けなければなりません。農家の懸命な努力を支えるためにも、まずは私たちが「CSFは人にうつらない」という正しい事実を正しく理解することが、最大の支援になるでしょう。
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