ノーベル賞作家パムクが放つ衝撃作『赤い髪の女』|父殺しと子殺しの神話が交錯するイスタンブルの光と影

1980年代から現代にかけて、目まぐるしい変貌を遂げたトルコの古都イスタンブル。この街を舞台に、一人の男の数奇な運命を描き出したのが、ノーベル文学賞作家オルハン・パムク氏の最新作『赤い髪の女』です。主人公のジェムは、作家を夢見ながらも地質調査技師を経て建設業界で成功を収めますが、その人生の裏側には常に「父」という存在の欠落が影を落としていました。

物語の始まりは2019年12月14日より数十年前、ジェムが高校1年生の夏に遡ります。政治活動に身を投じていた父親が、突如として家族の前から姿を消したのです。失踪の理由は、かつての政治的な拘留ではなく、どうやら女性関係にあるようだと母の沈黙から察するしかありませんでした。この不明瞭な別れが、ジェムの心に癒えることのない渇望と不安を植え付けることになります。

大学進学の資金を稼ぐため、ジェムは過酷な井戸掘りの仕事に従事します。そこで出会った親方に、彼は失った父の面影を重ね、師弟以上の情愛を抱くようになりました。しかし、残酷な運命は唐突に訪れます。作業中の不慮の事故にパニックへ陥った彼は、怪我を負った親方を暗い井戸の底に残したまま、現場から逃亡してしまうのです。この逃避行が、彼のその後の人生を縛る決定的な転換点となりました。

ネット上の読者からは「運命に翻弄される感覚が恐ろしい」「神話と現代が溶け合う筆致に鳥肌が立った」といった熱い反響が寄せられています。本作の最大の特徴は、現実の出来事と歴史的な「虚構」が密接にリンクする重層的な構造にあります。ジェムは、無意識のうちに二つの古い物語に強く惹かれていくことになります。

一つはギリシャ悲劇の傑作『オイディプス王』です。これは、知らないうちに実の父を殺害し、母を妻にするという過酷な予言を成就させてしまう息子の物語です。心理学用語の「エディプス・コンプレックス」の語源としても有名ですが、これは幼少期の息子が父親に対して抱く対抗心や、母親への独占欲といった精神的な葛藤を指す概念として、現代でも広く知られていますね。

もう一方は、ペルシアの叙事詩『王書』に登場する英雄ロスタムの悲劇です。こちらはオイディプスとは対照的に、わが子であることを知らずに息子を殺めてしまう父親の運命が綴られています。「父による子殺し」と「子による父殺し」。この相反する神話的モチーフが、ジェムという一人の人間の人生を左右する鏡のように機能し、物語を深淵な領域へと導いていくのです。

そして、物語を最も鮮烈に彩るのが、謎めいた「赤い髪の女」ギュルジハンです。年上の彼女は、若きジェムにとっての憧れであり、欲望をかき乱す存在でした。彼女はいわゆる「ファム・ファタル」、つまり男を破滅へと誘う「運命の女」としての象徴性を纏っています。彼女との偶然の出会いは、物語の終盤にかけて、驚くべき因果の糸で結ばれていたことが明かされるでしょう。

私は、この作品こそが現代における「運命論」の再構築だと感じています。個人の自由意志で選んだはずの道が、実は大いなる物語の型に嵌まっていたとしたら、これほど恐ろしくも美しいことはありません。パムク氏は、一人の男の成長譚を通じて、人間が抗えない血の宿命と、文明の衝突を見事に描き切りました。読後の震えが止まらない、至高の読書体験を約束してくれる一冊です。

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