大学卒業後、一度は就職の道を選んだ有栖川有栖さんは、24歳での結婚を機に「創作活動に本腰を入れよう」と決意されました。かつて挑んだ江戸川乱歩賞へ再挑戦したものの、結果は無念の一次選考落選。自身の才能に不安を感じていた若き日の彼に救いの手を差し伸べたのは、本格推理小説界の巨匠である鮎川哲也先生でした。
中学生の頃からファンレターを通じて交流を続けていた憧れの存在との対面は、1989年のデビュー前、鎌倉で実現します。この運命的な出会いを支えたのは、当時の角川書店で担当を務めていた青木誠一郎さんでした。憧れの作家と町を散策し、将来の夢を語り合ったひとときは、まさに至福の時間だったに違いありません。
SNS上では「中学生からの文通がデビューに繋がるなんて夢がある」「サインボードにサインをねだるエピソードが微笑ましい」といった感動の声が上がっています。特筆すべきは、有栖川さんが鉄道グッズのサインボードにサインを求めたエピソードでしょう。これは、先生の作品にちなんだ特別な選択だったのです。
「米子―京都」と記されたそのボードは、鮎川先生の名作『砂の城』に関連して選ばれました。後日、先生に不潔恐怖症の傾向があったと知り、有栖川さんは「汚れた板切れに書かせてしまった」と冷や汗をかいたそうです。嫌な顔一つせず要望に応えた先生の器の大きさには、多くのミステリーファンが胸を熱くしています。
編集者との出会いと「平成」の幕開けに飾った鮮烈デビュー
作家への道のりは、鮎川先生編纂のアンソロジー『無人踏切』に自作が収録されたことで加速します。その後、先生は有栖川さんの長編原稿を複数のベテラン編集者へ送り、強力な後押しをしてくださいました。ここで繋がったのが、第二の恩人となる東京創元社の戸川安宣編集長であり、出版へと大きく動き出したのです。
ここで「編集長」という役割について補足すると、単に原稿をチェックするだけでなく、作品を世に送り出す責任者として、作家の才能を見極め育てる重要な役職を指します。戸川さんは、大学時代の遊び心で付けた「有栖川有栖」というペンネームもそのまま採用し、若き才能の個性を尊重する決断を下されました。
1989年1月に元号が昭和から平成へと移り変わる激動の最中、デビュー作『月光ゲーム――Yの悲劇’88』が誕生しました。見本刷りを手にするわずか10日前に新時代が始まったという事実は、彼の作家人生が新しい時代の象徴となることを予感させます。夢の入口に立った29歳の青年は、ここから伝説を刻み始めるのです。
私個人としては、才能ある若者を温かく導いた鮎川先生の献身的なサポートに、文壇の美しい師弟愛を感じずにはいられません。独りよがりの創作に陥らず、信頼できる先達やプロの編集者との縁を大切にしたことが、現在の国民的ミステリー作家を生む鍵となったのでしょう。この奇跡的な歩みは、表現者を志すすべての人に勇気を与えてくれます。
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