写真界の巨星・奈良原一高を偲ぶ――同志たちが語る「未踏」へ挑んだその先駆的な軌跡

2020年2月1日、日本の写真史に大きな足跡を残した写真家、奈良原一高さんの思い出に、盟友である川田喜久治さんが静かに筆を走らせました。奈良原さんが倒れてから見舞いに訪れたのはわずか2回ほど。言葉をうまく発せない様子を目の当たりにし、川田さんは「もう行かない」とあえて突き放すような言葉を投げかけました。それは、かつての元気な姿を胸に焼き付けておきたいという、深い哀惜の念の表れだったのかもしれません。あれから16年という月日が流れました。

二人の出会いは、1959年に行われた新進写真家による「10人の眼展」まで遡ります。写真の代理店(エージェント)組織である「VIVO」が立ち上がる前夜、川田さんをその舞台に推薦したのは、他でもない奈良原さんでした。当時の彼らは、仕事の議論など二の次で、専ら遊びの話ばかりに興じていたといいます。奈良原さんの自宅へ招かれ、共に飲食を囲む時間は、若き表現者たちの束の間の休息であり、エネルギーの源だったのでしょう。

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沈黙が育んだライバル心と敬意

その後、奈良原さんがヨーロッパへ渡ると、時折届くはがきが友情の証となりました。「ピカソの生誕地、マラガにいる」という贅沢な報告に対し、川田さんはミシュランガイドを開いては「今いる場所の近くに美味しい三つ星レストランがあるよ」と、ユーモアを交えて返信していたそうです。お互いに仕事の細かい内容を口にすることは皆無でしたが、聴覚や嗅覚を通して、相手が何を感じ、誰が新しい表現に挑んでいるかは自然と伝わっていました。

この沈黙の共有こそが、互いの闘争心を研ぎ澄ます砥石となっていたのです。奈良原さんには、誰よりも早く未踏の領域へ足を踏み入れたいという強烈な欲求がありました。欧米の新しい潮流を誰よりも早く吸収し、それを日本へ持ち帰る彼の姿勢は、現代の日本の写真界にとっても計り知れない価値を生んでいます。川田さんは、「面と向かっては言えない」と前置きしつつも、盟友への限りない敬意をにじませています。

SNS上では、この追悼文を受けて「言葉を超えた友情の深さに胸が震える」「奈良原さんが切り拓いた道があったからこそ、今の日本写真がある」といった感動の声が相次いでいます。また、写真ファンからは「沈黙の中で闘争心を鍛え合う関係性こそが、芸術家同士の真の姿だ」という深い共感も寄せられました。写真という静かな芸術を愛する人々にとって、奈良原一高さんという先駆者の存在は、時代が変わっても決して色褪せることはないでしょう。

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