【感動】アンミカを作った「恵まれた貧乏」と亡き両親の教えとは?壮絶な過去をポジティブに変換する魔法

テレビで見ない日はないほど、明るい笑顔と巧みなトークで私たちを楽しませてくれるモデルのアンミカさん。2019年7月2日、彼女のルーツとも言える幼少期のエピソードや、今は亡きご両親との秘話が明らかになりました。華やかなパリコレモデルとしてのキャリアや、セレブな生活の裏側には、想像を絶するような極貧生活と、それを乗り越える家族の深い愛情があったのです。今の彼女のポジティブなエネルギーがどこから来ているのか、その原点に迫ってみましょう。

スポンサーリンク

4畳半に7人家族、「恵まれた貧乏」という原風景

幼少期に韓国・済州島から日本へ移り住んだアンミカさん一家。その暮らしは、まさに「壮絶」の一言に尽きます。なんと、間借りしたわずか4畳半の部屋に、ご両親と5人のきょうだい、計7人で暮らしていたというのですから驚きです。市場から色の変わった果物を拾ってきて食べるほどの貧困生活で、学校の給食費さえ払えないこともあったといいます。現代の日本では考えられないような苦境ですが、当時のアンミカさんの心に悲壮感はなかったそうです。

狭い部屋だからこそ、常に家族の体温を感じられる距離にいる。面白いことがあれば歌にして表現するなど、家の中は常に笑いと歌声で溢れていたといいます。彼女はこの時代を「恵まれた貧乏」と表現しています。物質的な豊かさはなくとも、心の豊かさと家族の絆がそこには確かに存在していたのでしょう。どんな状況でも楽しみを見つけ出す彼女の才能は、この頃に養われたのかもしれません。

相次ぐ不運と、若くして背負った家族の生活

しかし、試練は続きます。ご両親が経営していたラーメン店が軌道に乗りかけた矢先、相次ぐ火災によって2軒とも焼失してしまうという悲劇に見舞われます。さらに追い打ちをかけるように最愛のお母様が病に倒れ、お父様は治療費のために出稼ぎへ。当時まだ中学生だったアンミカさんは、新聞配達をして家計を支えながら、弟や妹たちの面倒を見るという過酷な日々を送ることになりました。

「反抗期なんてなかった」と彼女は振り返りますが、それは反抗する余裕さえなかったというのが真実でしょう。それでも、彼女は「思い悩む時間はなかった」と前を向きます。逆境に立たされた時、人はこれほどまでに強くなれるのかと、その精神力には感服するばかりです。彼女の底抜けの明るさは、こうした修羅場をくぐり抜けてきた自信に裏打ちされているのだと痛感させられます。

母が授けた「美の定義」と父の厳しい教え

アンミカさんの人生を決定づけたのは、ご両親の言葉でした。口元の怪我がコンプレックスで内気だった彼女に、お母様は「手足が長いからモデルになれるかも」と夢を与えました。そして何より素晴らしいのが、お母様の持論である「美人は一緒にいて居心地のいい人」という言葉です。容姿だけでなく、姿勢を正し、笑顔でいることの大切さを説いたこの教えこそ、今のアンミカさんの魅力の根源ではないでしょうか。

一方で、お父様は非常に厳しいハードルを課す方でした。モデルを目指す娘に対し「一流になるまで帰ってくるな」「新聞を読め」「資格を取れ」と条件をつけたのです。現在、彼女が情報番組のコメンテーターとして社会問題に鋭く切り込めるのは、この時にお父様から社会への関心を植え付けられたおかげだといいます。優しさの母と、厳しさの父。このバランスが、彼女を一流の表現者へと育て上げたのです。

編集後記:最強のポジティブ脳は一日にして成らず

筆者が今回の記事を通じて強く感じたのは、アンミカさんの「ポジティブ」は単なる楽観主義ではなく、生きるための「知恵」であり「武器」だということです。15歳で母を、29歳で父を亡くすという喪失を経験しながらも、その悲しみを美しい思い出へと昇華させています。きょうだいで集まる際は、今でも韓国式に膝を突き合わせ、互いに触れ合いながら語り合うそうです。その温かさが、彼女の言葉に説得力を持たせているのでしょう。

SNS上でも、彼女の生き方に対して「苦労人だからこその言葉の重みがある」「ただ明るいだけじゃなくて、芯が強い女性」「お母さんの言葉に涙が出た」といった共感と感動の声が数多く上がっています。彼女の著書『アンミカ流ポジティブ脳の作り方』も話題ですが、そのノウハウは机上の空論ではなく、まさに血と汗と涙の結晶なのです。私たちも、日常の小さな幸せを見つけ、大切な人に「笑顔」を向けることから始めてみたくなりますね。

コメント

タイトルとURLをコピーしました