中嶋常幸が挑んだ「メタル打法」へのスイング改造!スランプを脱出したプロ野球流の極意とは?

ゴルフボールが今よりもずっと貴重だった時代、林に打ち込めば必ず拾いに行き、池に落ちれば必死に救い上げたものです。1972年の全日本パブリック選手権で頂点に立った際、本番で手にした「マックスフライ」の感触は、今でも鮮明に記憶へ刻まれています。当時の道具への愛着は並々ならぬもので、遠征先のホテルでも自らクラブを磨き上げ、キャディバッグを掃除するのが日課となっていました。

かつてのパーシモン(柿の木で作られたウッド)の時代は、ソールを外して鉛の位置を変えるなど、自分好みに道具を育てる楽しみが溢れていました。全盛期には、目をつぶってアイアンを手に取っても、わずか0.5グラムの重量差を言い当てられるほど感覚が研ぎ澄まされていたのです。名器として名高いアイアン「TN87」の開発では、岐阜の養老工場に泊まり込み、職人と魂を削りながら理想の形を追い求めました。

しかし、その鋭すぎる感覚が、ゴルフクラブの素材が木から金属へと変わる過渡期には皮肉にも壁となって立ちはだかります。23歳でマスターズという世界の壁にぶつかった時以来の、深刻な「第2のスランプ」が私を襲いました。少年時代から体に染み付いたパーシモンの打ち方が、新しいメタルクラブの性能を引き出す邪魔をしていたのだと言えるでしょう。

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常識を疑い、野球の動きを取り入れた「メタル打法」の誕生

自力での打開に限界を感じた私は、かつてジャンボ尾崎さんを復活へと導いた後藤修さんに助言を仰ぎました。周囲からは「世界一美しいスイングを壊してどうする」といった批判が相次ぎましたが、私は全く動じませんでした。アスリートにとって最も重要なのは、自身の肉体の変化を察知し、過去の栄光を捨ててでも新しい自分を作り直す勇気を持つことだと言い切れます。

1989年の冬から足掛け2年に及ぶ指導の中で、私たちは「リストワーク(手首の動き)」に頼りすぎないスイングを目指しました。かつての木製クラブは手首を返して球を捕まえる技術が必要でしたが、金属製のメタルクラブは体の中心軸で回る動きが適しています。SNSでも「名選手ほど変化を恐れない」と話題になりましたが、まさにこの変革こそが復活の鍵となりました。

ここでヒントになったのが、プロ野球の右打者がライト方向へ球を運ぶ「流し打ち」の動作です。これをゴルフに応用した「メタル打法」を会得したことで、右へ抜けていた球筋は、美しい弧を描いて戻るドローボールへと生まれ変わりました。SNSでは当時のファンから「あのドローの輝きは忘れられない」といった感動の声が今でも寄せられており、理論の正しさが証明されています。

1990年07月、栃木県のロイヤルメドウGCで開催された関東プロで、私はついに逆転勝利を掴み取りました。約3年という長いトンネルを抜け、そのまま年間3勝を挙げる快挙を成し遂げたのです。道具の進化に合わせて自らを進化させる柔軟性こそが、翌年の日本オープン連覇という栄光を手繰り寄せた原動力になったのは間違いありません。

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