瀬戸内海に浮かぶ美しい男木島の傾斜地には、迷路のように入り組んだ集落が広がっています。2019年08月08日、この地に足を踏み入れた人々を驚かせているのが、彫刻家・遠藤利克氏による最新作「Trieb-家」です。瀬戸内国際芸術祭2019の夏会期において、ひときわ異彩を放つこの作品は、かつて誰かの生活の場であった古い民家を舞台に、見る者の感覚を激しく揺さぶる体験を提供しています。
舞台となった空き家は、長い年月の経過とともに神棚が崩れ落ち、床板も朽ちて穴が開くほどに風化が進んでいます。壁の破れ目からは外の景色が容赦なく入り込み、かつてここで営まれていた日常の面影は、もはやほとんど残されていません。しかし、この「死」を予感させる静謐な空間の中に、作家は驚くべき装置を仕込みました。それが、天井から猛烈な勢いで降り注ぐ「水」の存在であり、静寂を切り裂くごう音が家中に響き渡っています。
この作品の核心は、毎分6トンという途方もない分量の水が、滝のように家の中を突き抜ける光景に集約されるでしょう。タイトルの「Trieb(トリープ)」とは、ドイツ語で「本能的な衝動」や「駆動力」を意味する精神分析学の専門用語です。単なる理屈を超えて、内側から突き上げてくるような生命の根源的なエネルギーを象徴しています。朽ちゆく建築物という静止した存在と、荒々しく流動する水という対照的な要素が、この場所で激しく衝突しているのです。
未知の存在との遭遇が呼び覚ます、日常の崩壊と再生の物語
現地を訪れた鑑賞者からは、SNSを中心に「家の中で滝が流れる光景に言葉を失った」「破壊的な美しさを感じる」といった驚嘆の声が次々と上がっています。ただの廃屋が、圧倒的な水量を伴うことで、まるで生き物のような咆哮を上げているかのように感じられるのかもしれません。静まり返った島の中で、この家だけが異世界の入り口のように機能しており、訪れる人々は未知の存在と遭遇したかのような、奇妙で強烈な感覚に包まれるはずです。
編集者の視点から言わせていただければ、この作品は単なる「インスタ映え」を狙った展示ではなく、私たちが忘れかけている「生と死のサイクル」を突きつけてくる傑作だと確信しています。人が去り、役目を終えたはずの家屋に、暴力的なまでの水のエネルギーを注ぎ込む手法には、遠藤氏特有の生命観が色濃く反映されているでしょう。日常という皮を剥ぎ取られた空間で、水のごう音に身を委ねる時間は、自分自身の内面を見つめ直す貴重な機会になるに違いありません。
2019年08月08日現在、瀬戸内国際芸術祭は多くの観光客で賑わっていますが、この「Trieb-家」が放つ異質なオーラは、他のどの作品とも異なる深い余韻を残します。男木島の坂道を登り、汗をかきながら辿り着いた先で待っているのは、冷涼な水しぶきと、それに相反するような熱い生命の鼓動です。この夏、あなたも五感を研ぎ澄ませて、家という概念が崩壊し、新たな物語が始まる瞬間に立ち会ってみてはいかがでしょうか。
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